羽生善治

羽生 善治の名言集

何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。

プレッシャーは、その人の持っている器に対してかかるものだ。器が大きければ、プレッシャーを感じることがない筈だと、自分に言い聞かせています。

基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。だから、相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていく。自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで、踏みとどまらないといけません。

発見と創造。それこそが私が将棋を指し続ける最大のモチベーション。

情報収集をしすぎたり、対策を練りすぎると、かえって時代に取り残されてしまうことになりかねない。「捨てるべきときには、過去の蓄積を惜しまずに捨てる」という覚悟が重要。

勝つのは一点差でいい。五点も十点も大差をつけて勝つ必要はない。常にギリギリの勝ちを目ざしているほうが、むしろ確実性が高くなる。

ビジネスや会社経営でも同じでしょうが、一回でも実践してみると、頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。

「いかに戦うか」は、大局観にかかわるが、その具体的な戦略は事前研究が決め手になる。事前にしっかり準備して、万全の態勢で対局に臨んでくる人は強い。

私は以前、才能は一瞬のきらめきだと思っていました。けれど今は、10年とか20年とか30年とか、同じ姿勢で同じ情熱を傾け続けられることが才能なんだと思っています。

相手のことを知るよりも、自分自身が強くなればそれで済む世界だし、それを目指したほうが本筋というか、王道という気がしたんです。

勝敗を決定するのは、「ただの一手」であったりする。絶妙の一手。あるいは絶妙に見えて最悪の一手。この一手を見つけるため、棋士はたえず研鑽を積み、盤面に全神経を集中させている。

守ろう、守ろうとすると後ろ向きになる。守りたければ、攻めなければいけない。

人間は本当に追い詰められた経験をしなければダメだ。追い詰められた場所にこそ、大きな飛躍があるのだ。

見た目には、かなり危険でも、読み切っていれば怖くはない。剣豪の勝負でも、お互いの斬り合いで、相手の刀の切っ先が鼻先1センチのところをかすめていても、読みきっていれば大丈夫なんです。

一番いいと思えるものを簡単に、単純に考えることができれば、逆境からの突破口を見出せる。

人生の中で目指しているものがはっきりしている人は、いくつになってもエネルギーがある。

私は、人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。

すでに過ぎ去ったことは、仕方がない。私は、意識的に先のことを考えるようにしています。反省は、勝負がついた後でいい。

決まり切った局面で長考して時間を使って疲れるより、勝負どころの場面で、深い集中力を発揮できることが大切。

誰でも最初は、真似から始める。しかし、丸暗記しようとするのではなく、どうしてその人が、その航路をたどったのか、どういう過程でそこにたどり着いたのか、その過程を理解することが大切。

ただ一局一局を大切に、そこにだけ集中して指してきた。

大一番の対局では、誰しも手堅く、安全、確実な道を選びたくなるものだ。自分もそうすることがよくある。しかし、確実にという気持ちに逃げると、勝負に勝ち続けるのは難しくなってしまう。

勝敗を決するのは、高いテンション、自分への信頼、分が悪い時に踏みとどまる根性。

何事であれ、最終的には自分で考える覚悟がないと、情報の山に埋もれるだけである。

勝負の世界では、「これでよし」と消極的な姿勢になることが一番怖い。常に前進を目ざさないと、そこでストップし、後退が始まってしまう。

勝ち負けには、もちろんこだわるんですが、大切なのは過程です。結果だけなら、ジャンケンでいい。

長い時間考えた手がうまくいくケースは、非常に少ない。

「自分の得意な形に逃げない」ということを心がけている。

同じ方法で悪くなる。だから捨てなきゃいけない。せっかく長年築きあげてきたものでも、変えていかなくてはならない。

楽観はしない。ましてや悲観もしない。ひたすら平常心で。

興味が続くかぎり、集中力は続くものです。

直感には邪念の入りようがない。長く考えると言うのは、道に迷っている状態なんですね。「勝ちたい」とか余計な思考も入ってくる。だから、いくら考えても分からない時は、最初に戻って直感にゆだねることが、よくあります。

相手の意図を考えることから駆け引きは始まる。

意表を突かれることに、驚いてはいけない。

自分自身を裏切らない努力の姿勢が、未来の結果として現れてくる。

山ほどある情報から、自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。

「まだその時期じゃない」「環境が整っていない」とリスクばかり強調する人がいるが、環境が整っていないことは、逆説的に言えば、非常にいい環境だと言える。リスクの大きさはその価値を表しているのだと思えば、それだけ遣り甲斐が大きい。

一人で考えるか、それとも何人かの人が集まって知恵を出し合うか、どちらがより有効かは、非常に面白いテーマだ。私は、基本的には一人で考えなくてはいけないと思っている。

リスクを避けていては、その対戦に勝ったとしてもいい将棋は残すことはできない。次のステップにもならない。それこそ、私にとっては大いなるリスクである。いい結果は生まれない。私は、積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にすると、いつも自分に言い聞かせている。

成果が出ないときこそ、不安がらずに、恐れずに、迷わずに一歩一歩進めるかどうかが、成長の分岐点であると考えています。

遠回りしながらも、もがいて身につけたものの方が、簡単に得たものよりも後々まで役立ちます。

漠然とした不安は、立ち止まらないことで払拭される。精神的プレッシャーには、開き直りで立ち向かう。

ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。

終わったものはくよくよ考えても仕方ないから。

いろいろ考えられる選択肢の中から、「この一手」を選ぶのは、自分しかいないわけです。

もちろん勝負に勝つというのも大事なんですけど、そのためにいつも決まり形でやっていたら、そのことで将棋をやっている意味があるのかということに、どうしてもぶつかってしまうんです。誰もがやっている決まりきった道筋で振りきってしまうと、結局、人の来た道をただ辿ってるだけということになります。

役に立たないとか、意味がないと思っていることの方が、むしろ重要なんじゃないか。

ミスはミスを呼び、悪手は悪手を呼ぶ。プロがミスをしないのは、ミスしにくい局面を選択しているからなんです。本当に見たこともない新手は、ひらめきみたいなものからしか生まれない。でも、それは、先入観をすべて捨てて考えないとなかなかできない。

両方だめだという結論のなかで二者択一にこだわるよりも、まったく読んでない手のほうが可能性が広がるのだ。

欠点を裏返すと、それがその人の一番の長所であったりする。

どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ。

細かく考えすぎたらその場から動けないし、だいたいで動いているだけでは目的地につくことはできない。

新しい試みがうまくいくことは半分もない。でもやらないと、自分の世界が固まってしまう。

イメージが浮かぶのは、序盤と終盤である。浮かんでしまえば、あとは中盤でその間のつじつまを合わせればいい。

必ず最後には踏み込んで勝負に出なきゃいけない時がある。

理想としては、勝負を超越した心境の中で、将棋を指すことなんです。

新しい戦型は、実戦で試して一度負けないとマスターできない。

集中力がある子に育てようとするのではなく、本当に好きなこと、興味を持てること、打ち込めるものが見つけられる環境を与えてやることが大切だ。

大きく見ることと、小さく突き詰めていくこと、このバランスが大切なのだと思う。

たとえば、最初に相手がミスをする。そして次に自分がミスをする。ミスとミスで帳消しになると思いがちだが、あとからしたミスのほうが罪が重い。そのときの自分のミスは、相手のミスを足した分も加わって大きくなるのだ。

努力をしている人の側にいると、自然にいい影響が受けられるだろう。

集中力は、人に教えてもらったり、聞いて身につくものではない。勝負どころでの集中力を発揮するには、集中できる環境を自らつくり出すことこそが大切だと思っている。

私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。

何事も年齢が上がってから覚えた人は、感覚よりも知識に頼る傾向がある。

車でいえば、「意識的に少しアクセルを強めに踏む」ようにリスクをとるように心がけています。

1日5時間×365日×10年、練習を続けたら、大抵のの人はプロになれる。 0羽生善治の名言確かに負けている時の方が、新しいことはやりやすいですね。どうせ今、状況が悪いんだから何か違うことでもやるかという。とにかく良くなるまで色々手を尽くせばいいので、そういう時の方が、思い切ったことはやりやすい。

平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。

いまの情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来るものです。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。

棋士は、最後は自分の責任で指し手を決めます。それなのに「こうだ」と教えてしまうのは、親切なようであっても、じつは親切ではありません。「もがく時間」はすごく大事です。わからない、迷っている、悩んでいる。そのような時間は、後々の財産になります。

好きな言葉は「玲瓏」です。いつも透き通った心静かな状態でいたいと思っています。

「人間は、ミスをするものだ」長い間、将棋を指してきて、こう、つくづくと思う。

20代には20代にしかできない将棋がある。

損を一気に取り戻そうとすると、うまくいかないことが多い。

物事を忘れるのは、脳がそれを必要としないと判断したから。

自分が思いついたことは、他の誰かも思いついているものなんです。これは経験則として、ほぼ間違いなくそうなんで。あんまり持っていてもしようがない、というのはあるんですよ。

人生は食事をして眠るだけのくり返しではない。「こういうことができた」「こういうことを考えた」という部分がある。

努力をやめてしまうのは、「それが、いつうまくいくかわからないからだ」と書きましたが、「もうダメだ」と思ったときは、結構いいところまできていることが多いものです。そこからもうひと頑張りできるかどうかが、明暗を分けます。

モチベーションと気力と情熱さえ持続していれば、抜け出せないスランプはありません。

常識もマニュアルも通用しない。カーナビが効かない場所では、自分の力を試されているようでもあり、充実感が実感できるはずだ。

ゆっくり行ったほうが楽しいものが見えるんじゃないか。

力のある人が力を出していないのはすごく怖いんですよ。

固定観念に縛られてしまうと、未知のものに驚くとか、好奇心が膨らむとかがないので勉強になりません。

ラッキーだとか、ツイていたというように本当に心の底から思える時が実力なんじゃないか。

直感力とは物事の進むべき道筋を示す「羅針盤」のようなもの。

時間の経過とともに生じるズレを自覚していかに調整して自分に合わせていくか。

相手のよい部分をなるべく見るようにして、できるだけ嫌いな人をつくらない。

これは掘り下げる余地がありそうだと感じれば、信念を持って、研究を進めていきます。

人間の埋もれている力を見いだせた人や発掘できた人たちを「天才」と呼ぶのではないでしょうか。

考えている中身より、費やしている時間や努力が決断する時の安定剤になる。

積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にすること。

簡単な達成感でも積み重ねることによって自信がついてくる。

温存しとこうとか、あとで使おうというのはダメで、今持っている力は早く使い切ったほうがいい。

わかりそうだけれどもわからないことが一番楽しい。

人間には思考を省略して考えることができる。素晴らしい能力があるのですが、時にはそれが先入観や、偏見となって新しい発想を妨げることもよくある。

真剣にその道を究めようとか、その道ひと筋でやっていこうという人は一種の狂気の世界というか、何かそういう線を越えないと、その先が見えないような気がします。

気力がしぼまないポジションをキープしていないと逆転はできない。

年をとっても伸びていくのはバランス感覚だと思う。

棋譜にどれだけの深みを持たせることができるか。どれだけ美しい手順を見つけることができるか。

「真似」から「理解」へのステップは想像力を培う基礎力になる。

「絶好調!」と口にしている人は自分に暗示をかけているのではないか。

最大の魅力は力が上がれば上がるほど、おもしろみも増していくということ

将棋における人生と日常生活での人生とをドライに割り切っていくほうがいい。

自分の調子の波を極力小さくして常にフラットに近いような状態に持っていく。

小さい時に始めていれば戻ってやり直したいと思った時に選択肢が広がる。

時間制限があるからこそ目標に向かって集中できる。

マイナス面に打ち勝てる知性、自分自身をコントロールする力を同時に成長させていかないと、経験を生かしきるのは難しくなってしまう。

対局相手は自分の個性を引き出してくれる存在。

「子ども世代」との対局は自分のこれからを決めるリトマス試験紙。

優位のほうは慎重になり、悪いほうは開き直っているから逆転しやすい。

調子が戻るまでにはある程度の時間は必要。一局一局を丁寧に指しているうちに、いつの間にかよくなっている。

ひとつの局面について読んでいると、たとえ読みが外れて全く想定していない局面になっても何とか対応できる。

未知の局面に出くわした時、どれだけ素早くその局面に対応できる力を持つか。

将棋とは「粘土」のようなものーどんなものにも形を変えられる。 1羽生善治の名言

負けた時には絶対に原因があります。必ず自分自身のなかにミスがあります。

知識は単に得ればいいというものではなく、知識を積み重ねて理解していく過程で「知恵」に変える必要がある。

何時間も考え続けることができる力。そして、その努力を何年もの間、続けていくことができる力。

冷静でいられるか。客観的でいられるか。焦らないでいられるか。

「そんなバカな」と思われることから、創造は生まれる。

目の前の勝負以外のところで、やっぱり何かしなくてはいけない。

選んだ以上は後悔しない。あとは振り返らない。

いかに集中するかではなく、いかにうまく休むかということを考える。

将棋というのは大海原のような世界ですね。指していると、人間の小ささを感じる。

難しい問題に対して、わからないと思いながら考え続けた根気。ずっと我慢して費やした時間。そうしたことがプロとして育っていくことを助けたのではないか。

感性を研ぎすます秘訣は、ほかのジャンルの人と積極的に話し、聞くこと。

人間は自分にとって必要なことのみ覚える能力がある。

40代は、自分がこれまで蓄積してきたことを、具現化していくのにとてもいい時期だと思います。

将棋の世界での流行の最先端をつくっているのは、20歳前後のプロになっているかいないかくらいの人たちのアイデアから生まれていることが非常に多い。だから若い世代に対しては、育成というよりむしろ学ぶことがあります。

他人のやり方を真似すること自体はいいことだと思いますが、そのまま真似ても、うまくいくとは限りません。しかしそこに「何かしらのヒント」はある。自分ができる部分を取り入れたり真似たりして試行錯誤を繰り返しながら、成長していけるでしょう。

負けた時には、何が悪かったのか。どこに問題があったのか。自分なりに総括し、必ず反省と検証をします。ただいったん終わったら、あとは過ぎ去ってしまったこととして、次に向かっていく。

自分なりに何かをやってみて、微調整を繰り返していく。これを習慣化すること。そうやって修正していけば、目標や目的に近づける。柔軟性を持って振り返りながら検証し、対処していける。

将棋の水準は日進月歩でレベルアップしていますから、最低限求められる基礎を抑えるために、かなりの時間を割かなくてはいけないのも事実です。

局面をみて最初に思いついたことは、ある意味で邪念がないアイデアです。もちろん必ず正しいとはかぎりません。しかし、自分の発想や考え方が端的に現われているアイデアのはずです。さらにじっくり考えるにしても、そこから出発して考えを組み立てていくほうが自然で、やりやすいのです。

プロですから勝負して勝つことは大前提であるにしても、完璧や完全はあり得ないし、ある程度はダメでも仕方がない。ときには負けても仕方がないと、どこかで考えているほうがストレスも小さいでしょう。

直感は数多くの戦いをこなし体系的に学ぶうちに、後天的に養われるもので、説明ができます。でも、ヒラメキは説明ができません。なぜか自分でもわからないが、ひらめいたとしかいえません。

無難な判断ができるようになってきたと思ったら、安全運転ではなく、意識してアクセルを踏み込むようにすべきです。そうやってアクセルの踏み加減とリスクの按配を覚えていくのが本当の成長であり、正しい判断ができるということにもつながるのだと思います。

最近は、どんなに反省したり注意したりしても、同じところで同じようなミスを繰り返すのは仕方がないことだと思うようになりました。ミスを犯さないようにしようとすると、かえって自分の長所まで消してしまうということにもなりかねません。

いまは誰もが情報を平等に手に入れられる時代ですから、自分が思いついたアイデアは、だいたい同じ時期にほかの誰かが思いついているものです。アイデアを寝かせていたら、先にほかの棋士に指されてしまいます。

直感は天性のものなのか、環境で育まれるものなのか、私にはよくわかりません。ただ、後から努力の積み重ねで磨かれるものではあると思います。

いかにして早く気持ちを切り替えるか、それが大事。終わったら、次の対局や次の目標、あるいは次の課題について考える。

仮説は外れることもあります。しかし、仮説検証を繰り返すうちに、次第に全体像をイメージする精度が上がっていく。

創造というのは、99%は過去にあった何かの組み合わせだと思うんですよね。ですからそうした意味での創造はAIでもできるようになるような気がします。

時間と状況が限られた実際の盤面で選択を繰り返すこと、つまり実戦の積み重ねが直感を磨く道。

平均点を目指すと、限界も決まってしまう。

勝負では、知っていることに、自分の思考とかアイデアをプラスしないと、意味がないのですが、知っているという、その一点だけで、有利になるということもよくあるんです。 0羽生善治の名言

いくら情報が溢れていても、創造の基本となるのはゼロからの視点です。私も棋譜検索を使っていますが、必要以上にデータに頼らず、自分で考え抜いた方が、新しいことを思いつきやすいという経験則があります。効率は悪いですが、長い目で見ると自分にとってプラスになります。

日々の中でどんなことでもいいので、何かを発見するように心がけています。たとえば、一局指して勝ったものの、収穫も進歩もなかったとなればモチベーションは下がります。でも、こういう発見があった、こういう課題が見つかったとなれば次につながります。

私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。

独創的な思考や創造的な思考に頭を切り替える時、記憶は足を引っ張ります。

順調なときというのは、いい循環が起こっているので、それほど深く考えなくても、わりと簡単に正しい手を選ぶことができます。しかし、ミスでその好循環が崩れてしまうと、盤上が混沌としてきます。それで新たなミスを起こしやすくなるのです。明らかにミスをしたとわかったら、そのミスが次のミスを呼ばないよう気を付けています。

私は「どんなことでもリスクのない状態はない」と考えています。現代は様々なリスクが定量化されているので、必要以上に数値にとらわれると臆病になってリスクが取れなくなります。でも、リスクのない状態はないと開き直ってしまえば、リスクをとることにためらいがなくなります。

相手のミスがあって、初めて形勢は逆転する。

将棋にかぎらず、勝負の世界では、多くの人たちに、どれだけ信用されているか、風を送ってもらうかは、戦っていくうえでの大きなファクターであり、パワーを引き出してくれる源である。

教える行為に対して、教えられる側の依存度が高くなってしまうと問題である。

頭の中に空いたスペースがないと集中できない。対局場に向かうために移動するとき、基本的になにも考えずに窓の外の風景を見たり、将棋に関係ない本を読む。

考えることが多いんですよ。研究していても、その場で思いついたり、深く掘り下げたりすることがあるんで。

これだけ長くやっていても、将棋の可能性はまだまだあるんだなというのは、実感としてあります。例えば、20年も研究されているのにいまだに結論が出ない形があって、まだ何もわかっていないんだと愕然とするってことは、よくあるんで。そういう部分を模索していくということもあるし。そこに対局という勝負もついていて、当然、結果を求めていく気持ちもありますけど。

まあ、そんなに大げさなものはないんですけど。わかる範囲でわかったらいいな、とは思っています。

今更、気張っても何とかなるわけでもないので。普通に、自然にやってどうなるか、ですね。

若いころは、破天荒なことをやることですごい勢いとか、運を呼ぶことがある。

改善の兆しがあるから、あれこれ手を打てる。

最終的には同じ結論にたどり着くとしてもそれまでの時間とプロセスが全く違います

頭のなかの将棋盤をひっくり返して相手の立場に立って眺めてみたりもする。

ほんとうの勝負は定石を超えたところからはじまり、最後の決め手は情熱です。

あまりにもせっかちに勝つことばかりを考えてしまうとどこかで伸びが止まってしまうのではないか。

勝とうとすることはある意味で欲である。その欲が考えを鈍くしたり、踏み込みを悪くする。

人が何かに魅せられている姿には必ず魅せられる。

どれだけ楽しいかが集中力の持続へとつながります。

今でも新しい発見があるので将棋が楽しい。

経験には諸刃の剣のような側面もある。

苦手な人とは距離感を変える。嫌なことは早く忘れる。

マイナス要素の勉強法を採っていたおかげで、長期的な勉強方法の重要性と、そのためプラスの環境に気づき、それを活用する土台になっていた。

相手の手の内に飛び込むことで、新たに浮かんでくる一手を消すほうがいいのではないか。

将棋に限らず何事も幅広く、そして世間のペースでなく、自分のペースでものを考えたい。

他力に任せるというか、うまく相手に手を渡せるかどうか。

「自分を大事に」という気持ちを振り払って、負けるかもしれないが挑戦し続けようと思った。

波はつくれないが、乗ることはできる。

じたばたしても、あとの人たちがどう見るのか、影響を与えることはできませんから。

今努力しても突然強くなるということはありません。反対に努力しないからといって突然弱くなるということもありません。

道の途中でも、その時にしか感じることができないものもある。

ごちゃごちゃ考えすぎずにシンプルな思考を心がける。

仕事の醍醐味とは情熱を持続すること。結果ではなく内容からおもしろさを発見すること。誇りと責任を持つこと。

棋士は決して逸脱できない法律のなかで、建物を造りなさいと言われているようなもの。

好きなことなら時間が経つのも忘れてやり続けることができる。本当に夢中になったら黙っていても集中するものだ。

人間は将棋を理解していません。まだまだ知ることが、たくさんあります。

これ以上集中すると「もうもとに戻れなくなってしまうのでは」とゾッとするような恐怖感に襲われることもある。

将棋にはさまざまな種類の駒があって、それぞれが違う動きを持っている。

将棋に限らず何事でも発見が続くことが楽しさ、おもしろさ、幸せを継続させてくれる。

お互いの考え方の違いや棋風の違いを認識することから成立する対話もある。

その人なりの選択を繰り返して多くの手数を積み重ねた結果「棋風」が醸し出される。

才能とは10年、20年と同じ姿勢で同じ情熱を傾けられる力のこと。

まっさらな状態で先入観なしで見ることが一番重要でしょう。

机上の理論や研究だけでは見えてこない部分。それは実戦を通して身につけていくしかない。

これから機械がどんどん賢くなるのは目に見えているので、人間の知能も同時に上がっていかなければ、社会に導入する際に何らかのひずみが生じてしまうことになりますよね。だから、人間がより賢くなるためにAIの力を使うことができればすごくいいなと。AIを脅威に感じている人も多くいるでしょうが、そう考えれば怖くなくなるかもしれませんね。

将棋の世界では、AIが新しい発想やアイデアのきっかけになるということが既に起こっているんですよ。今、膨大な数のソフトが日々、対戦しているのですが、その中から創造的な作戦や戦法とかが生まれているんです。

勉強といっても、私たち棋士にとっては、実戦の中から得るものがやはり大きいですね。新しいアイデアや発想のヒントを実戦から得て、それを日常の練習の中で掘り下げ、全体的な理解を深めていきます。

大量の情報に触れる機会が多いということは、自分の頭で考え、課題を解決していく時間が少なくなっていくことでもあるので、そこが少し気になります。未知の局面に出合ったときの対応力は、今の若い棋士たちは先輩たちより少し下がっているような気がするのです。

建築物が基礎から築かれていくように、どういうプロセスを経て結果が組み上がってきたのかを知るのはとても大切です。私たちはアナログで育った世代ですから、基礎や土台のつくり方を見ていますし、大変な労力と時間を使って自身でつくってきているわけです。それはある意味で、私たちの世代の強みかもしれません。

将棋でも、心や体の状態と判断力は密接に関係しています。私の場合、バロメーターは、答えを見つけることが時間的な制約があって難しいときに、踏ん切りよく手が選べるかどうか。思い切って選べる日は調子がよくて、逆に迷ったりためらう場面が多い日は心や体の状態がよくなかったりします。

私たち日本人には、「自己肯定感」が欠けている人が多いのではと思います。個人レベルでも組織レベルでも、そういう傾向がある。だからこそ、最も補わなければいけない部分なのでしょう。

メンタル面で切り替えなければならない時には、気分転換するようにしています。髪形を変えたり、部屋の模様替えをしたりして、何かしら生活にアクセントをつける。部屋の片づけをしたりもします。

自分に合った「成長の仕方」が、人それぞれにあると思います。例えばどんなにすごい人や事例を見ても、自分が同じことができるか、同じパフォーマンスを上げられるかと言えば、そうではない。結局は、自分なりのやり方やスタイルを見つけるほかありません。

将棋の世界でも、実戦を重ねれば、「過去に類似したケースがあったな」「ここから抜け出す方法はまだたくさんあるな」といった具合に、経験が生きてくる場面はあります。ただ、「経験したこと」が、その後の出来事に直接、役立つわけではありません。自分なりに過去の経験を咀嚼して、きちんと消化し、違ったものに変換させて、未来に活かすのです。

ツキや運、つまり流れやバイオリズムは、たくさんの要素が絡み合って変化していくもの。これは天気のようなものなので、晴れの日もあれば曇りの日もある。一喜一憂しても仕方がない。

失敗覚悟でトライする必要があります。実戦でトライすることで、その戦型の可能性や修正点、あるいは「こういう手もあるんじゃないか」という新しい発想が生まれてくる源にもなります。失敗が自分を成長させるための糧となるんです。ですから、頭の中であれこれ考えるよりは、まず試してみることが大切です。

直感とロジックの関係は、地図を使って目的地にたどり着くプロセスのようなものです。たとえば日比谷公園にいきたいとして、東京中をくまなく歩きまわるわけにはいきません。まずは地図で目星をつけて、近くまで電車やクルマでいく。そのうえで、最後は自分で一歩一歩歩いていかなくては目的地には着かない。直感とロジックの関係はそういうものだと思います。

将棋は、突き詰めると自己否定につながるところがあります。どの手を選ぶかはすべて自分の責任ですから、ミスをしたり失敗したりするのもすべて自分のせい。そう考えていくと、「結局、自分はダメなんだ」ということになりかねません。自己否定に陥らないためにどうするかというと、ある種のいいかげんさ、適当さが非常に大事なのかなと思います。

この先どうなるか、どう行動するかということは、そんなに深くは考えていません。ただ、そのときそのときの情勢に合わせていこうとは思っています。将棋のスタイルにしても、将棋界の情勢に合わせて変えていこうと思っています。とくに、いまからこうしようという考えはありません。

年齢や環境のことなど基本的な部分はかなり大きいのも事実です。後はその人の性格とか努力が大きいですよね。本当に2、3年でパッと変わってしまう人っているんですよ。急に力が上がってくる、そういう人がいるんです。だからそれは本人のいろいろな意味での努力でしょうね。

師匠は特に教えてくれないんです。ほとんど技術的なことは全くといっていいほど教えてくれません。すべて自分で考えて自分に合った勉強方法を見つけるという感じです。どういう勉強方法をとるのかはそれぞれで、レベルによっても違い、また、その人に合った方法が必ずしもほかの人に合うとは限りませんからね。

若いうちは時間がかかっても、考える習慣をつけた方がいいのではないでしょうか。若手の棋士にも、感覚的にどんどんいい手を指してくる、才気あふれる人がたまにいますが、勢いだけで指している人は、たとえ強くてもあまり伸びません。それよりも、この局面ではどの手を選ぶのが正解なのか、常に考えながら指す人の方が、たとえいまはそれが結果に結びついていないとしても、将来、確実に強くなるといっていいでしょう。

つい攻め込みすぎて逆襲されるというミスをよくする人が、そうならないようにと慎重に指すようになったら、おそらく別のところでミスを犯すようになるはずです。だから、ミスをなくすというより、自分のミスの癖を知っておけばいいと思います。

仮に批評や批判が的を射たものであったとしても、実践と、それを控室やテレビで見ているのとでは、プレッシャーも緊張感も違うのですから、もちろん参考にはしますが、かなり割り引いて聞いています。気にしすぎなのはよくないですね。

大局観を失って全体が見えていないと、直感は上手く働きません。逆に、いまどういう状況で、これからの局面はどちらに向かってどのように展開していくのかということがつかめれば、指し手は自ずから見えてくるものなのです。

最後は直感で判断します。瞬間的にこれが正しいと感じるというのは、要するに、それまでの経験の積み重ねから脳がそう判断したということですから、ああでもない、こうでもないと理屈で考えた結果よりも、よっぽど信頼できます。実際、あとで振り返っても、直感で指した手が間違っていたというケースはあまりないのです。

正しいことをやっているが、成果が出ないときは、私は気分を変えるようにしています。気分転換は何でもいいのです。趣味を始めるでも、やめるでも。髪型を変えるでもいいのです。

ブラブラと何も考えずに外を歩くことが、一番のストレス解消法になります。

巡り合わせのようなものもありますし、負けは結果ですから。チャンスがあればまた頑張ります。

先行きを心配しても仕方がない。折々に判断を下すときに、私は人間が本来持っている「野性の勘」を大切にしたいと思っています。

ちょっと疲れているぐらいのときのほうが感覚は研ぎ澄まされている。

決断とリスクはワンセットである。

強さを手に入れるまでには、いい負けを重ねていく必要がある。

調子は天気みたいなもので、晴れ続けることはないので、調子がよくない日は「そういう日もある」と割り切るようにしています。

勝負に一番影響してしまうのは「怒り」の感情。

毎回石橋を叩いていたら、勢いも流れも絶対つかめない。

将棋は二人で指すものなので、相手との駆け引きの中で自分を表現していく。その意味では、相手は敵であると同時に、作品の共同制作者でもあり、自分の個性を引き出してくれる人ともいえます。

「どうせムダ」「役に立たない」といったくらいの気楽な気持ちで考えることが新しい発想を生むコツです。ちょうどジグソーパズルをバラバラに適当に、わざと間違えて置いてみるイメージです。そうすると、ひとつのピースを手に、「ここのブロックではないか」「このブロックはこういうふうに出来上がっているのではないか」と、少しずつ考えて、ある一定まで進むと、全体を把握できるようになります。

私は自分なりの価値基準を決めて、情報を取捨選択します。情報の質を見極めるときには、自分が信認した基準をほかに持つことをお勧めします。たとえば「この人が言っているので間違いない」といった具合です。

ベテランの場合は10年かかってマスターした戦法を、愛着があって捨てきれないということがよくあります。ただ10年前、20年前に一生懸命勉強した戦法が復活するときもあります。そのようなこともありますので、絶対的な価値づけをするのではなく、蓄積した知識や経験の流動性を保つことが大切なのです。

やる気の源は、発見し続けること。

変化が激しい時代だから経験はムダなのかというと、そうではないと思います。新しい局面に対処しなくてはならないとき、「過去にこういうやり方で遠回りしてしまった」「こういう方法でブレイクスルーできたことがある」といった経験にもとづく方法論が役に立つからです。あるいは、何をやったらいいのかわからないときに、過去の成功や失敗の経験が進むべき方向の指針になることもあるでしょう。

人は追い込まれないと深く考えないし、そういうプレッシャーの中でしか真の実力は養えません。曖昧で答えのわからない状態というのは誰にとってもつらいものですが、私はそういう局面こそ強くなるチャンスだと常に考えるようにしています。

三流は人の話を聞かない。二流は人の話を聞く。一流は人の話を聞いて実行する。超一流は人の話を聞いて工夫する。

夢は目指した時から、目標に変わる。

1回1回の対局は、未知の旅に出る、知らない何かを探しに出発する。私はそんなイメージを抱いて指しています。

将棋は頭脳スポーツであり、ジャスト・ゲームである。

本当に将棋の序盤が変わったのは、七冠を獲った後のことですから。藤井システムとかが出始めて、2000年くらいですかね。凄く大きく変わったのは。私が七冠を獲った96年頃は、序盤が変わったといっても、その後の変化から見たら、大したことじゃなかったんですよね。

不利になっても本筋を追求するのが基本的に大事。

相手の棋風や出方を考えてしまうと邪心が入ってしまう。

定跡を学ぶことと独創的なことをすることは相反する。

だらしない手を指してはいけない。とにかく前へ出る。

自分の考えを時折言語化してみる。

直感力や感性は総合的に磨かれる。

忘れていくというのは次に進むための大事な境地。

指導の基本は本人が気づくための時期を待つ。

ハートで考えるという概念がとても好きです。

「ミスしたから、うまくいった」というケースもあります。将棋の対局では良い手を指そうとするものですが、「間違えたからこそ結果的にうまくいった」ケースもある。逆に、「正しい手を指したけれど、勝てなかった」ケースもあるわけです。つまり、選択と結果は必ずしも一致しない。しかしそこに、物事の機微があるとも言えます。だからといって、「ミスした方がいい」わけではありませんが。

将棋の世界でもソフトが強くなってきています。人間の棋士が朝から晩まで長時間の試合を毎日続けるのは不可能でも、コンピューターだとそれができてしまうんですね。ですから私が今、考えているのは、膨大なデータの中から機械が見つけ出した特徴を、人が学ぶことができないかということです。

意識しているのは、一生懸命やることでしょうか。もちろん何を一生懸命やるのかという中身も大事なのですが、精神状態についていうと、一生懸命にやり尽くしたという事実が大きい。

タイトル戦であと一回負けたらタイトルを失う状態をカド番といって、昔はカド番のたびにプレッシャーを感じていました。でも、いまは慣れてきて、「もし負け越したら次に勝ち越して返り咲けばいいや」と考えられるようになった。もちろん負けないために全力を尽くすのですが、気持ちはとても楽観的です。

歴史を100年、200年単位でさかのぼり客観的に見ると、確実な時代など1度もない。今の時代が特殊なのではなく、「不確実な状況」というのは、歴史的に見れば普通の状況。

限られた時間のなかで、すべての情報を把握するのは不可能です。とくに、最近の将棋はものすごく細分化していて、様々な戦型の開発が、同時並行的に複数の棋士によって行われています。なかにはプロの棋士である私ですら、「この型については、質問されても困る」といったものもあります。ですから、自分にとって重要だと思われる情報を、的確に取捨選択していくしかありません。

これから日本がどうなっていくかはわかりませんし、わからないことは考えない。それは、思考をストップさせるという意味ではありません。わからなくても、とりあえず目の前で何かを選んでいかなくてはいけないし、進まなくてはいけないからです。

先のことを考えるのは、楽しいといえば楽しいものです。でも、だいたいは、考えてもそのとおりにならない。いろんな人がいろんなことを予想していますが、まずそのとおりにはなりませんよね。あまり予想なんかしても仕方がないとさえ思います。

僕の場合、たとえば難局で苦しんでいるときでも精神状態を極めてリラックスさせ、楽しもうと局面を眺めているとき、無意識にふっとそういう手が生まれるんです。

手を読んでいる気配がまったくなく、ただ静かに盤面を眺めておられた。盤面という一幅の絵画を見て、「ここにこの駒があると、より美しくなる」といった感覚で手を指す。まるで大局観が違いました。自分の力ではまだ縮めることのできない、恐ろしく大きな差があるのだと実感しました。

プロ同士の対局では、5手先だって読めません。手堅くいこうと思っても、相手が思わぬ手を指してきて、あっという間にピンチになることもあるし、技をかけようとすれば、すぐ見抜かれて逆にこっちがかけられてしまいます。予定通りにいかないのは、将棋にかぎらずどの世界でも同じことだと思います。

将棋にかぎらず大局観というのは、正しい判断をするうえで大変重要だと私は思います。木を見て森を見ずではありませんが、仕事で難しい決断を迫られたら、そのことだけを考えるのではなく、一歩引いて、いまという時代の流れの中でその課題を考えてみると、案外答えが見つかりやすくなるのではないでしょうか。

ミスがミスを呼ばないようにするには、お茶を飲んだり窓の外の景色を眺めたりして、ひと呼吸置くといいでしょう。それから、私の場合は、ミスをしたという事実を頭から消して、この局面から新たに始めるのだと考えるようにしています。もちろん、同じミスを再び犯さないよう反省はしなければなりませんが、それは対局が終わってからやればいい。実践中はひたすら前だけを見ていることが大切なのです。

経験には人をリスクから遠ざけるという負の側面もあるので、その点は注意が必要です。確実に80点取れる手ばかり指すようになると、確かに大きなミスはしなくなります。その代わり、挑戦しなければいまいる場所より先には進めません。時代は動いているのですから、3年もすると、確実に時代から置いていかれてしまうのです。

理にかなった手がわかるというのは大事な要素です。けれども、常に論理的に正しいのが最善手というわけではありません。ある局面を示し、どの手が論理的に正しいか尋ねれば、プロなら皆同じことを言うでしょう。つまり、論理だけで指していたら、相手にはこちらの手の内がすべてわかってしまう。それでは勝てないのです。

私は目標を立てたことがありません。あえて言うなら、いまの自分自身が思い描いている50代、60代になっていないのが目標です。人生は、意外性や偶然性が混ざって進んでいくのが一番いいと考えていますので。

アイデアはいろいろな知識が組み合わさることで生まれてきます。最初の段階では、自分が取捨選択した知識を吸収することから始める。するとある臨界点に達したとき、それまで蓄積した知識と知識が結びついて、理解になり、湧き出るようなアイデアが次々と出てくるようになるんです。そうなるまでは、やはり辛抱強く知識を蓄積していくしかありません。

細かいことに気づいていくようになれば、ミスにも気づくようになる。ミスに気づけることは、自分が以前よりも確実に進歩している証しでもある。

スランプと感じたことはありません。結果が出ない時期はありましたが、それは実力だと思っています。

もうこれ以上はやれないというところまでやれば、本番ではいい意味で開き直れる。

変化が速い時代に対応するためには、自分自身も変化することを恐れてはいけない。

いいときは何事もうまくいくので、むしろ悪くなったときにどれだけ頑張れるかがその人の真価。

勝負の世界は、実際に戦ってみないことには、結果は分からない。

将棋で奇襲はあまり役に立たない。一回は勝てるかもしれないが、それでおしまいなので、王道を磨いたほうがいい。

感情の起伏を完全になくすのは難しい気がしますが、感情が揺らいだときに自分なりに折り合いをつけることは大事なことでしょう。

棋士の生活はマラソンに似ています。一般に、競技生活が長いですから。私はプロになって26年目ですが、「まだあと30年あります」といわれたら、気持ちが萎えてしまいます。あまり先のことまで考えると、道のりが途方もなさすぎて辞めたくなる。むしろ「とりあえず1キロ走ろう」という気持ちでやっていくほうが、自然に続けられるのではないでしょうか

対局では一生懸命に先を読んでいます。しかし、それでも読みが当たらない、あるいは、わからないというケースも非常に多いのです。10手先をきっちり予想するのも極めて難しい。自分と相手の2人が5回ずつ指すだけなのに、です。これが世間一般の事象となると、まず自分では決められないことや介入できないことが多いですし、自分が決めたあとにいろいろな人が手を出してきて状況が変わっていきます。そうなると、2手先、3手先でも、どんな局面になっているのかわかりません。それを考えても仕方がないのではないでしょうか。

混沌としていて何をやったらいいかわからないという場面に出合ったとき、確信も持てないし自信も持てないのは当然です。それでも、とりあえず「なんとなくこっちじゃないかな」という方向に進んで、そこでズレていると思ったら軌道修正をして、まだズレていると思ったらさらに軌道修正する。その方向性だけ誤らなければ、先がみえなくても、比較的迷わず、遠回りせずに進めるのではないでしょうか。

将棋の研究は鉱脈を掘るようなもの。

頭のなかに空白の時間をつくることも必要。

夜の闇が暗ければ暗いほど朝も明るくなる。

よほど先見性のある人でない限り、「自分が進むべき羅針盤を見つけることができて、それがいつも合っている」ということは、ほとんどないと思います。羅針盤は、「方向性が完璧に合っていないといけない」わけではなく、大まかでいいわけです。北に行くのか、南に行くのかさえ間違えなければいい。行きたい方角が間違っていなければ、少しずつ軌道修正しながら、だんだんと目的地に近づくことはできるはずです。

基本的な能力や知識、判断する力は、人はだいたい皆同じです。では何が違うのか。人にはそれぞれ、自分のスタイルや個性というものがあります。一方で、将棋の世界にもその時々のトレンドというものがある。活躍できるかどうかは、その時に流行っている最先端のものと自分のスタイルが合っているかどうかというマッチングの要素が大きいのです。トレンドにあまりに合わせすぎてしまうと、自分のスタイルが崩れてしまう。自分のスタイルは崩さない範囲で微調整して、合わせていく。両者をピッタリ合致させる必要はありません。その方向に向かって努力していけばいい。

最初から細かいところにこだわって理詰めで追っていくと、効率が悪い。指し手を読んでいって、この筋はだめだとわかったら、おおもとに立ち返るわけですが、それを繰り返していたのでは、時間と体力の消耗が大きいし、的外れなところにとらわれて考え込むこともあります。それよりも、最初の段階である程度「こういう方向性でいこう」とか「とりあえずはこの手で」というのを決め、ポイントを絞ってそこに集中する。つまり「見切りをつける」ということですが、これまでの経験の積み重ねがあって、それができるようになったのだと自分では思っています。

よく「経験知を活かす」といわれますが、それは経験してきたことが「そのまま活かせる」ということではないと思います。世の中も、自分を取り巻く情勢も変わりますから。「経験知を活かす」とは、経験から得たさまざまな選択肢の中から、目の前にある問題やテーマに対して、何が一番いいアプローチの方法なのかを選んでいくことだと思います。

勝負の世界では、ベストだと思う手法が通じるかどうかは、常に皆目わからないものなんです。ただ、この場面でこのやり方は通じないとか、この手はあまりよくないだろう、という当たりはつきます。経験知が活きるのは、そういう場面での対処ではないでしょうか。つまり「こうすればうまくいく」というより「これをやったらうまくいかない」ということを、いかにたくさん知っているかが大切であるような気がします。

クルマでいえば、「意識的に少しアクセルを強めに踏む」ようにリスクをとるように心がけています。経験を積むと、どんな局面でも「これさえやっておけば、無難に収まる」といったやり方を人は自然に覚えていきます。それを避けるために、少し思い切ったことをやるのです。ベテランは黙っていても無意識にブレーキを踏みますから、少しアクセルを強めに踏んだとしても、結果的にちょうどいいくらいのリスクをとっているといえるのです。

玉石混交な情報の山から情報を取捨選択するときは、これは使える、使えないと見極めるしかありません。ただ、そのときに大切なのは、情報にあたるときにその都度自分で判断しながら新しい発想を生み出すように意識することです。また、選んだあとに反省しても後悔しないことが大切です。選択肢が多ければ多いほど、選ばなかった選択肢の方がよかったと後悔しがちだからです。

将棋の対局は時間が長いので、何かアクシデントが起きて心が乱れても、わりとリカバリーしやすいです。テニスの試合を見ていると、不利な場面で審判にクレームをつけて試合を止める選手がいますよね。なぜ判定が覆らないのに文句をいうのか。あれは心を落ち着かせるための時間稼ぎでしょう。心がざわついても、時間が解決してくれることは多いと思います。

切り替えが必要な時というのは、「考えていることが頭から離れなくなる」時です。切り替えるためには、何か違うことをする。そうすれば、少なくともその時間は、頭の中からその「考えていること」が離れる。運動、カラオケ、何でもいい。「考えていること」からいったん離れてみると視点が変わり、気分も変わって、新たな気持ちで物事に取り組める。

ミスには2種類あります。1つは「自分が認識できるミス」、もう1つは「認識できないミス」です。正しいことをやっているつもりでも、「後から見れば間違っていた」というケースはよくあります。とすれば、少なくとも今の時点で「ミスに気づいている」ということは、それほど深刻な状況ではない、ということでもある。むしろ、気づかずミスすることの方が怖い。

若いときは勢いで将棋を指すことができました。けれどもある程度経験が蓄積されると、過去の成功体験や失敗体験が足かせとなって、思い切った決断ができにくくなるものなんです。経験によって状況を把握する力が高まる半面、迷うことも増えてくるんです。そのときに手堅い将棋をするのもひとつの手ですが、そればかり続けていると確実に時代から取り残されることになります。そこで、迷いに対しては意識的に見切りをつけ、アクセルを強めに踏んで前に進もうとする。それぐらいでちょうどいいのではないでしょうか。

直感は便利で使い勝手のいいものではあるのですが、あまりに頼りすぎるのは危険です。いいところは突いているけれど、正確さに欠ける、ということになってしまいますから。本当はロジックと直感の両方を伸ばしていくのがいいのでしょうが、このふたつは「片方を伸ばすと、もう片方が疎かになる」という関係にある気がします。「最近、直感が冴えてきたな」と思うと、読みが雑になる。そのあたりをどうコントロールするかは、私も悩ましいところですね

まったく新しい戦法が現われたときに「こういう新しい戦法が出てきたときには、一生懸命研究すれば、半年ぐらいで理解できるようになるかな」「このテーマなら理解に一年はかかるな」といった目星をつけられるようになりました。これは過去に何かを成し遂げたときの「経験の物差し」があるからです。そうすると、少なくとも目星をつけた一年なり、三年なりのあいだは、不安にならずにやるべきことに邁進できます。

私が直感に重きを置くようになったのは棋士になってある程度経験を積んでからのことです。10代でプロになったころは、ロジックが8~9割を占めていました。というのは、直感的に判断しようにも、直感のもとになる経験がないからです。そこで、いわば物量作戦のように、考えられる手をしらみつぶしに考えていくしかなかった。それが、10年、15年と経験を積むうちに、思考の最初の段階でおおざっぱに「だいたいこのあたりかな」と予測して、そこから細かいところをロジックで詰めていくという方法に変わっていったのです

反省の仕方ひとつにしても同様です。ミスをしたり負けたりしたときに、あとから振り返ると、たいてい似たようなところでミスをしているものです。反省はするけれども、それでも、また同じミスをすることはよくあります。そこで「二度と同じミスはしない!」と決意しても、人はすぐ忘れるじゃないですか。そして、また同じミスをしますよね。結局、癖だから仕方がないのでしょう。ただ、そういう自分の癖を知っておけば、同じミスはするものの、回数は減らせます。完全になくせれば一番いいのでしょうけれども、なかなかそうもいかないなら、頻度を低くすればいい。同じミスを繰り返すとしても、それが月に一回なのか、年に一回なのかでは、まったく影響が違います。一年に一回のミスを三年に一回にできれば大きな成長といっていい。そのくらいの考え方がちょうどいいのではないかと思います。

将棋では、対局後に「今日は完璧だった」「ノーミスだった」ということはほとんどありません。たいてい反省点があります。それを前提にしているので、何事も、あまりにきっちりしたやり方を追求してもうまく回らない、という感覚があるのでしょう。ミスをするのが前提、といったらおかしいかもしれませんが、そういうことも当然あると考えていますし、ミスをしたときに修正ができること、できるだけ動揺せず、ミスの前とあとで同じスタンスで対処できることをいつも考えています。

どんなに場数を踏んでも、動揺するときは動揺しますよ。対局中に動揺してしまったときは、その場面でどうしたらいいかを考えることに集中します。一番困るのは、何をやったらいいのかわからなくなってしまうことです。逆に、気持ちがどんなに揺れていても、次の一手を選べればいいのです。何かしら具体的な次の行動が見つかれば、それが安心にもつながります。

本当に勘は大きいですよ。結局序盤の定跡などは皆プロですから同じですし、研究している量も同じです。終盤、例えば5手詰め、7手詰めなど詰ます力は同じですよね。違うといったら中盤の場面ですね。よくいい手か悪い手か判断がつかない場面での着手、その手がいいのか悪いのかは後で調べてみなければ分からないんですけど、そのあたりの勘に頼んで指さなければならない2、3手で決着がついているということが非常に多いんです。

情報量が増えると判断の精度も上がるとは一概には言えません。たしかに昔に比べれば知識や情報が入手しやすくなって、それが若手の棋士のレベルアップにつながっているという側面はあります。しかし、知識や情報が増えるというのは、それだけ迷ったり悩んだりする材料も増すのだということを忘れてはいけません。どんなに最新の定跡や戦法を知っていても、勝負所で判断ミスを犯せば、その人は負けてしまいます。

最善手を選ぶというのは、裏を返せば、数ある選択肢の中からそれ以外を捨てるということですから、知識や情報が増えれば、それだけ選択肢が増えて見切りは難しくなるのです。また、知らないことに対する恐怖や不安も大きくなります。見切りの技術や、恐怖や不安に打ち克つ精神力も同時に鍛えて、初めて知識や情報は自分の財産になるのです。

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