養老孟司

養老 孟司の名言集

仕事というのは、社会に空いた穴です。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているわけがない。

人生の分かれ道で、安全な方と危ない方があれば、危ない方を選べ。

そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないとできないはずです。「おまえたち、俺を見習え」と言えるほど立派に生きている教師がどれだけいるのか。

本当に好きなら苦労はいとわない。苦労が苦労ではないからである。苦労したくないなら、結局それほど「好きではない」のである。

自分の好きなものを追求していくと、どんどん自分が変わる。そして変わるということは、成長するということです。

君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう。では、桜は変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。「知る」というのはそういうことなのだ。

皆が群がる場所ではなく、誰も行かないような場所へ行ってみる。人が行きたがらない所へ目を向けてみる。そこにこそ、皆が手に入れることのできない貴重なものが落ちているように思います。

先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見たり、果ては文部科学省の顔を見ている。子どもに顔が向いていないということでしょう。

先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見たり、果ては文部科学省の顔を見ている。子どもに顔が向いていないということでしょう。

一歩を踏み出さなきゃ、好きかどうかも分からない。

漫画とかアニメーションばかり見ていると、基礎になるものがなくなる。基礎がトトロでは困る。

人間にとって100%のことことは、死ぬこと以外にには一つもないのです。何もどうせ「死ぬんだから」と投げやりになるということではありません。恐る恐る生きる必要もない。ただ、常に覚悟を心にもって生きるということです。不確定な未来に軸足を置くのではなく、今という時間に軸足を置くこと。今日という日、目の前の小さな命に心を寄せることです。

都市社会は意識の世界、「同じ、同じ」をくり返す世界です。そこで「違う」個性が認められるはずがない。

人間にとって100%のことことは、死ぬこと以外にには一つもないのです。何もどうせ「死ぬんだから」と投げやりになるということではありません。恐る恐る生きる必要もない。ただ、常に覚悟を心にもって生きるということです。不確定な未来に軸足を置くのではなく、今という時間に軸足を置くこと。今日という日、目の前の小さな命に心を寄せることです。

暇が無い、というのは気分であって、必ずしも事実ではない。結論を急ぎすぎて経過を楽しまない。それが忙しいということである。

人間を構成している成分は約1年で90%入れ替わる。人間は川のように流れ移り変わる。本当の自分など存在しない。

若い人の弱点は、今の自分で世界を考えたがること。自分が変われば、世界も変わることに気付いていない

これだと自分が思えることなら、何歳になって見つかってもいい。それこそ何度、転職してもね。 3養老孟司の名言

天才といわれる人はほとんどが努力。人より秀でている部分を余分に良く使う。

若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。それよりも親の気持ちが分かるか、友だちの気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。

保育園の必要性を説くのはいい。増やすのもいい。でも私はその議論が先行していることに、じつは危機感を持っています。

普通、誤解されて怒っている人は、誤解されることによって損するのは自分だという考えをもっています。でも私は誤解して損するのは相手だというふうに思うようにしています。

ささいなことで「それは自分らしくない」「それをやると自分ではない」というようなことを言う人は逆に、自分についての確信がないのです。どうもオンリーワンを主張している人は実はこういう側の人のような気がするのです。

人というのは、いつ死ぬかわからないんです。ボーッとしてたら、あっという間に終わってしまう。だから、まず一生をどうやって生きていきたいのかというところから、きちんと考え直したほうがいいと思う。

やることがないとか、面白くないとか言っていませんか?世の中が面白くないですか?でも世の中簡単に変わらないですよ。じゃあ、どうすれば面白くなるのか。自分が変わることです。自分が変われば、世の中が面白くなる。

変わっていくこと、それが学ぶということ。知るということです。自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい。

人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。とりあえずの答えがあるだけです。

人気のある華やかな仕事、楽しそうな仕事、お金の稼げそうな仕事、そんな所に人々は群がります。なぜなら、そこには幸せがあるような気がするからです。

毎日がつまらない人は、「このままでいい、世界はいつも同じだ」と決めつけている人なんです。

古典は読むべきだし、読む力をつけるべきである。それには自分で読むしかない。他人を当てにしても無駄である。まして学校ではほとんど何も教えてはくれまい。

大事なことは、これが自分の生き方だ、自分の仕事だと決めることです。

今が幸せかどうかなどと考えることは、まったく無意味なことです。そんなことは後になってから自然に分かってくる。

どうして「自分に合った仕事」なんて、いわば世迷いごとが流行するのか。「やってみなけりゃ、わかりません」が正解であろう。だからただ「働け」といえばいい。

一つひとつの記事の中身に、虚偽や誇張があるかどうかではない。問題は、言葉による伝達とは違う形で、メタメッセージがあったということなのです。

一つひとつの記事の中身に、虚偽や誇張があるかどうかではない。問題は、言葉による伝達とは違う形で、メタメッセージがあったということなのです。

その人が埋められる穴もあるけれど、埋められない穴が世の中には幾らでもあります。埋めたい穴と埋められる穴は別のこともあります。埋めているうちに、穴を間違えたことに気づくということも十分あり得る。

ある女性が中学生のときにいじめられたいきさつを書いた本を読むと、その中に出てこない要素があることに気づきました。それは花鳥風月です。世界が半分しかないから、いじめが相対的に重くなって当たり前です。

現実とはなにか。それは皆さんの「行動に影響を与えるもの」なんです。だからそれは「人によって違う」。

とりあえず一度は雑用をやってみたほうがいいと思います。若いときにはいろいろなことをやってみることを勧める。ただし、それを雑用だと軽く見て半端にやってはいけない。それでは薬にならないから。

育つというのは、変わるということじゃないですか。教育の「育」は「育つ」ですよ。それを、コンピュータの容量が増えると思ってるんじゃないんですか。それでは「育たない」。

貯金通帳に入っている金というのは、使ったらこうだと想像する楽しみがあるだけです。お金を使う権利を持っているというだけの話です。

すでにやってしまった以上は、その結果がよいほうに向かうように、あとの人生を動かすしかない。

学生って、その時の景気のいい企業に入りたがるでしょう。でも、必ず僕らくらいの年齢になると、ヒイヒイいうことになる。

結局ね、ダメなんですよ、人に生かしてもらったら。自分で生きなきゃダメなんです。

閉塞状況とは外に壁があるのではない。自分を変えようとしないところから始まる。

知識が増えても、行動に影響がなければ、それは現実にはならない。

確かに自分を変えるのは怖いかもしれない。どうなるかが、予想できなくなるからです。だからこそ、勇気が意味を持ってくる。

人生は家康型なのです。一歩上がれば、それだけ遠くが見えるようになるけれども、一歩上がるのは容易じゃない、荷物を背負っているから。しかし身体を動かさないと見えない風景は確実にある。

自分の力で探し物をする。ほんとうにそこには幸せが落ちているのでしょうか。

自己実現などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる。

人の言うことを気にしていること自体、ギリギリまで何かに取り組んでいる状態ではありません。

なんのことはない。見た目がきれいなうえに、便利な食品を手に入れた代わりに、税金より高いツケに苦しんでいるのである。

現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単な話でしょうか。実際には、そうではありません。だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。そこで宗教を作り出してきたわけです。

人事の世界でいやなことがあったら、どうするか。やっぱり虫を捕りにいきます。誰になんと言われようが、どんないじめ方をされようが、虫は関係ありません。

「風が吹けば桶屋がもうかる」ではないですが、「ああすればこうなる」式の蔓延が少子化につながっているのです。

「客観的事実」などを盲目的に信じてはいけない。それが常識を知っているということなのです。

自然とはもともと、どうなるかわからないものです。子どもは車ではない。部品が全部、わかっているわけじゃありません。そういうものが「どうなる」か、完全にはわからないのです。

楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況がいちばん気持ちいいから。

そもそもいちばん出来の悪いのがいるってのは、共同体では大切なことなんですよ。ビリがいなくなれば、ビリから二番目がビリになる。ビリの人は、全体に恩恵を与えているんですよ。

ニートに腹を立てたり彼らを放りだしたりするよりは、そういう人が働かないから自分がちょっと働くだけで重宝されると思っておいたほうがいいのです。

戦後日本は、短くいえば都市化しました。戦後の日本社会に起こったことは、本質的にはそれだけだといいてもいいくらいです。そこでは皆さんは自然を「ないこと」にしています。

普段、職場で能力のない問題児だと思われていた人物が、状況の変化次第では一番有能な存在になるかもしれない。たとえその人が問題児であっても、様々な人材を抱え込んだ多様性ある職場ほど状況の変化に強いという視点で、職場の人間関係をもう一度捉え直してみるのも一法かもしれません。

教養は「身につく」という言い方をするでしょう。まさにその通りで、知識を披露するだけならそれは、「鼻につく」と言われるのが関の山です。

自力で試行錯誤しないと、身につきません。人に教わるのは一見効率的ですが、大きな弊害がある。教わったことを真似すれば、物事はできてしまうことが多い。すると、なぜできたのか考えなくなってしまいます。いちいち「なぜ?」と考えることこそ、重要なのです。

古典はただ読むだけなのに、必死に考えないと、なかなか先に進めない。つまり、古典は読み進めるだけでも頭を使うので、「考えることが苦にならない脳」を作ることができます。 1養老孟司の名言

個性だ何だ、世の中が言うから悪い。そんなもんないと思えば、何ごとも「奥様のおっしゃる通りでございます」とできるんです。第一、間違ったことを言ってこっちが変なことになったら、向こうも困るんだからね。でも大体間違ってないですよ。「あいつの言うことを聞いてひどい目に遭った」というのはない。

気遣われてると相手がわかるようにすることは大事。僕は遠巻きから女房の面倒を見ているわけです。そのことに相手が気がついたら効きます。「ほかのこともそうしてくれてるのかな」と想像力が働くから。一つでも気づいてくれたら大もうけ。

互いの顔が見える共同体は、それ自体が保険になる。

他人は互いにわかり合えないものです。わかり合えないからこそ、言葉があるのです。

人間、頭ばかり使っているとおかしくなる。現代人は頭よりも、もっと身体を使うべきだ。

向こうをどうこうしようという前に、自分を変えるほうがいい。何しろダダだもん。

理屈で説明がつかない物事は、世の中にいっぱいある。

インターネットの中にあるのは、全部過去の遺物です。

放っておけば、女は元気、男はおとなしく神経質。

人というのは、いつ死ぬか分からない。

相手が悪だということは、自分が正しいことを保障するわけではない。

そもそも先のことなんか、だれにも分からないんです。どうなるか分からないけど、まずやってみよう。そういう気持ちが苦境を切り抜けるパワーを与えてくれる。

日本人は外ばっかり見ている。しかも、根拠もない世の中の常識に踊らされている。だから不安になる。

人は何かを知り何かを忘れ、生まれ変わり続けている。そういう経験を何度もした人にとっては、死ぬということは特別な意味を持つものではない。

私は、幸福論など語ろうとは思わない。むしろ馬鹿げているとさえ思っています。だって、今思っている幸せと、後から思う幸せとはまったく別のものだからです。

自分が変われば世界も変わる。自分が変われば楽しくてしょうがなくなる。同じ場所で風景が違って見える。

どん底だと思ったら、もっと掘れ。

会社が自分にあった仕事をくれるわけではありません。

女房に最初やられたとき、こういうプリンシプルで一生やられたらかなわないなと思った。それで妻を変えようとするじゃない。そうすると、ものすごい反応があって、晩飯が食えなかったり、茶碗が割れたりした。だから反省したわけです。これは割にあわないと。コスト計算すると、僕の考えを変えたほうが安くつく。だから今は、何ごとも「奥様のおっしゃる通りでございます」。

夫婦の向き合い方は直角がいいと思っている。一点で一致しているけど、ベクトルが90度ずれている。お互いが同じ向きだと、喧嘩はしないけど一人でいるのと変わりません。お互いが正反対の向きでも、トータルの合力がゼロになっちゃう。直角は、夫婦の力が一番出る関係。全く異なる価値観だけど、それが合わされると大きな力が生まれる。「異質なものを取り入れる」と組織も言うでしょう。それですよ。

都市生活では、「体」が無視され「脳」だけで生きるようになる。文明は脳によって作り出されますから。でもその脳が乗っている「体」は自然そのもの。だから「脳=都市」だけの世界以外に、「体=自然」が主人公になる田舎の生活を織り込んだ方が心身ともに健康になります。

共同体の内側からだけ見ていると壁の外側の世界が見えません。しかし外側に出てしまえば、内側の一員ではいられない。だから会社で生き残る人間にとって今後一層大切なのは、内だけでもなく外でもない、壁の上に立った視点を持つことでしょう。

何か一つにすべてを懸けるより、タコの足のように生きるのがいい。

本は知識を得るために読むものだと考える人が多いと思います。そうではなく、考えるために読む。

変わるとは、成長することでもある

壁は全て、自分が作っている。

言葉にするのは情報化する能力だ。

先が見えないときは、まず一歩を踏み出してみなさい。

好きな虫とりをやってれば非常にハッピー、後は全部譲ってもいい。世の中には奥さんに眉をひそめられてる虫マニアもたくさんいる。そこはお金があるとか家が広いとか、余裕が必要なんです。僕が若い頃は、大学の先生の夫婦喧嘩といえば8割は経済問題。虫を飼うのも「家が狭いのに、邪魔だ」という話になる。僕は、その余裕をつくるため必死で働いているんですよ。働くモチベーションって大事でしょ。

いかに住まうかとは、いかに生きるかということです。天災はいつ起こるかわかりません。環境やエネルギーの問題などを考え合わせても、そのときどきで都合のいいところを選んで暮らす生き方があってもいいでしょう。

現代人は参勤交代をしたほうがいい。過疎地が増えているけれど、社会インフラが整った日本では田舎でも実は生きていける。過疎地対策も含め、日本人がみんな都市と田舎を参勤交代する生活様式を確立すれば、個人も社会も豊かになります。

ゴマスリは、独裁者がいる組織ほど現れます。独裁者は孤独です。なぜなら自分の決断一つで多くの人の運命を左右することになるから。だから、ゴマスリは状況が切迫しているほど効果があります。ゴマをする側の意図とは別に、結果的に独裁者を支え、良い効果をもたらすこともありうるので、一概に否定もしきれないと私は思っています。

先行き不透明な時代を生きていくには、人間というものを理解しておくことが大切です。たとえ急に社会が変わっても、人間の本質は変わらないのですから。

記憶は感情に結びついている。強い感情に結びついた記憶は10年たっても残るんです。その傾向は女性のほうが強い。男のほうが抽象的で適当に生きている。男と女では、持っている情報量が何ケタも違う。

状況が変わらぬという前提なら、能力は測れるかもしれない。しかし状況が変われば、能力を測る物差しも変わります。

ちゃんと人の心が分かれば、誰とでも適切な距離感や関係性が築ける。これさえできれば、どんな状況でも生きていけます

同じ古典作品を何年か空けて読み返すといいんです。読み返すたびに、自分の成長を確認できるのですから。

どれだけ物を知っていても、行動に生かされなければ意味がない。

人間の脳は、社会を相手にするか、自然を相手にするかで、使う脳か違うことがわかっています。女性は社会脳が発達していて、だから人づきあいが上手。一人で黙って考えて、数学の証明をしたりするのは、自然脳を使います。こちらは男性のほうが得意。大事なのは、社会脳も自然脳も人間に備わっていて、どちらが暴走してもいけない、ということ。

同僚の足を引っ張ったり嫌がらせをするのも、適当な範囲であれば、人間の集団におけるごく普通の現象と言えるでしょう。しかし、度が過ぎていれば「問題児」ということになります。この種の問題が生じるのは、本質的には人が余っているからだと私は見ています。コンピュータの導入などあらゆることがスピード化・合理化された結果、実際には人が余っているということが、職場における人間関係のトラブルの陰に潜んでいるのではないかと考えていますが、仕事が本当に忙しくて必死に働いていれば、他人の足を引っ張ったり嫌がらせをしているヒマなどないはずでしょう。

古典は、内容が抽象的なものが多い。読むうえで大切なのは、内容に自分で解釈をつけていくことです。特に、書かれていることに違和感を覚えた時こそ、「どういうことだろうか」とよく考えてほしい。同意できる内容は、既に自分が分かっていることですよね。逆に違和感を覚えるものは、今の自分に分からないこと。そこを考えることに、意味があるのです。

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