ショーペンハウアー

アルトゥル・ショーペンハウアーの名言集

才人は、誰も射ることのできない的を射る。天才は、誰にも見えない的を射る

孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間になってしまう。なぜなら、孤独でいるときにのみ、人間は自由になれるのだから。

誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる

自分の幸せを数えたら、あなたはすぐに幸せになれる。

結婚とは、男の権利を半分にして、義務を二倍にすることである。

世界は悲惨な者にとってのみ悲惨であり、空虚な者にとってのみ空虚である

多く笑う者は幸福にして、多く泣くものは不幸である。

運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する。

人はなんでも忘れることができるが、自分自身だけは、自分の本質だけは忘れることはできない

卑しい人たちは、偉人の欠点や愚行に非常な喜びを感じる。

悲しみのほぼすべては他人との関係から生まれる。

富は海水のようなものだ。飲めば飲むほどに渇きをおぼえる。名声についても同じである。

何事も、成功までには3段階ある。第一段階、人から笑い者にされる。第二段階、激しい抵抗と反対にあう。第三段階、それまで、笑いものにしたり、反対したりした人達がいつの間にか、そんなことはわかっていると同調するようになる。

医者は人間を弱いもの、弁護士は人間を悪いもの、牧師は人間を愚かなものと見る。

人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。

あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ。

音楽とは、世界がその歌詞であるような旋律である。

なんびとにもせよ、まったく突如として、人は生きているのである。

どのような運が降りかかろうと、喜びに浮かれることのないように、悲しみに暮れることのないように、万物は流転し、そして運もまた、いつ変わるとも知れないのだから。

良書を読むための条件は、悪書を読まないことである。

男同士は本来、互いに無関心なものだが、女は生まれつき敵同士である。

軽信というものは、善良に生まれついた人に具わる特徴である。

人間の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり、社交を愛するからではなく、孤独が恐ろしいからである

船荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。一定量の心配や苦痛、苦労は、いつも、だれにも必要である

我々は朝を生の本質と見、これを神聖に扱わなくてはならない。

他人の欠点や愚行を自分から探すような人は、間違いなく不幸になる。

笑うことが多い人は幸福であり、泣く事が多い人は不幸になる。

船というのは、荷物をたくさん積んでいないと、不安定でうまく進めない。同じように人生も、心配や苦痛、苦労を背負っている方がうまく進めるものである。

紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

われわれのすべての災禍は、我々がひとりきりではいられないことに由来する

人は、その生涯の最初の四十年間において本文を著述し、続く三十年間において、これに対する注釈を加えていく。

謙譲というものは、平凡な能力を持つ人間の場合には単なる誠実であるが、偉大な才能のある人間の場合には偽善である。

礼節とは、道徳的にまた知的に貧弱な互いの性質を互いに無視し合いながら、非難しまいという暗黙のうちの協定である

人々は閑暇を犠牲にして富裕を得る。だが、富裕は自由な閑暇があってこそはじめて望ましいものとなる。富裕のために自由な閑暇を犠牲にしなければならないならば、私にとって富裕が何になるだろうか。

未だかつて、自分は本当に幸福だと感じた人間は一人もいなかった。

学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人である。

名誉は、外に現れた良心であり、良心は、内に潜む名誉である。

世間普通の人たちは、難しい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり、権威ある言葉を引用したがる。

宗教とは蛍のようなものだ。光るためには暗闇を必要とする。

信仰は愛のようなもので、強制することはできない。

おいしい料理も、呑みこんでしまえば我々の感覚にとってはないも同じだ。欲求はそれを満足させたとたんに、もはや我々には関係ないものになる。

礼儀正しさが人の本性に訴えかける働きは、熱がロウに伝える働きのごとし。

熟慮を重ねることによってのみ読まれたものは、真に読者のものになる。食べ物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。

安定していないこと。それこそが世界がここにこうして存在するときの定まった形なのだ。

普通の人々は時間をつぶすことに心を用い、才能ある人間は時を利用することに心を用いる。

いま持っている財産は、これから起こるかもしれない害悪と災害に対する防壁とみなすべきであり、世の快楽を手に入れる許可証とみなすべきではない。

人間は、金を貸すことを断ることによって友人を失わず、金を貸すことによってたやすく友人を失う。

人生の情景は、粗いモザイクの絵に似ている。この絵を美しく見るためには、それから遠く離れている必要がある。間近にいては、それは何の印象も与えない。

重要な思想を誰にでもわからせるように表現するほど難しいことはない。

人生の幸福にとっては、我々のあり方、すなわち人柄こそ、文句なしに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである。

すべての人間は、他人のなかに鏡を持っている。

我々は他の人たちと同じようになろうとして、自分自身の4分の3を喪失してしまう。

善、愛、高潔な心を動かしやすい行為や愛の業を行わせることができるのは、つねにただ他人の苦悩に対する認識にほかならない。

天才は平均的な知性よりは、むしろ狂気に近い。

善、愛、高潔な心を動かしやすい行為や愛の業を行わせることができるのは、つねにただ他人の苦悩に対する認識にほかならない。

天才は平均的な知性よりは、むしろ狂気に近い。

知は力なり—とんでもない。きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持っていない人もあるし、逆になけなしの知識しかなくても最高の威力をふるう人もある。

人間は孤独であるかぎり、彼自身であり得る。

あきらめを十分に用意しておくことも、人生の旅には必要なんだよ。

私達は持っていない物について、常に思いを張り巡らせるが、一度手に入れると興味を失う。

読書で生涯を過ごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。

読書とは、自分で考える代わりに他のだれかにものを考えてもらうことである。

金銭は、人間の抽象的な幸福です。だから、もはや具体的に幸福を享楽する能力のなくなった人は、その心を全部、金銭にかけるのです。

求めていた対象を、はじめに辿った道では見つけえなかったのに、全く別な道で見つけることも少なくない。

読書しているときは、我々の脳はすでに自分の活動場所ではない。それは他人の思想の戦場である。

老年の歳月における人生は、悲劇の第五幕に似ている。

人間は、自分の頭脳や心を養うためよりも何千倍も多く、富を得るために心を使っている。しかし、私達の幸福の為に役立つものは、疑いもなく人間が外に持っているものよりも、内に持っているものなのだ。

人生は苦しみと退屈のあいだをたえまなく揺れ動いているようなものだ。

犬がいないなら死んだほうがましだ。

失ってはじめて我々は恵みに気がつく。

富は海水に似ている。飲めば飲むほど、のどが渇くのだ。名声についても同じことが言える。

どのような不幸に際しても、何よりも強い慰めとは、自分より、もっと不幸な他の人たちを見ることによって得られる。

推理する能力を持っている人はたくさんいるが、判断する能力を持っている人は少ししかいない。

世論は振り子の運動の法則に従う。

時は、時をよく用いる者には親切である。

人間の幸福の二つの敵は苦痛と退屈である。

無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。

我々は生まれたからには死ななければならない。死は我々という餌食を呑みくだすまえに、ひとときおもちゃにしているだけなのだ。

我々の視野、活動範囲、交際範囲が狭いほど、我々の幸福は大きくなる。それらが広いほど、我々は煩わしく、また不安に感じる度合いが大きくなる。なぜなら、それらは心配、願望、恐怖が増大し広がるからである。

強い人間は自分の運命を嘆かない。

虚栄心は人を饒舌にし、自尊心は人を寡黙にする。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。読書にいそしむ限り、実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない。そのため、ときにはぼんやりと時間を潰すことがあっても、ほとんど丸一日を多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失っていく。

最後に凱歌を挙げるのは死である

孤独は優れた精神の持ち主の運命である。

障害と闘って勝つことが人間を幸福にする。

Meigenbot

Meigenbot運営👍

Comments are closed