レオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチの名言集

鉄は使わなければ錆びる。水は澱んでいれば濁り、寒空には凍ってしまう。ましてや怠惰でいれば気力さえも失われる。

その手に魂が込められなければ、芸術は生まれないのだ。

知るだけでは不十分である。活用しなければならない。意思だけでは不十分である。実行しなければならない

食欲がないのに食べるのが健康に悪いように、欲望を伴わぬ勉強は記憶を損ない、記憶したことを保存しない。

時々、機会を見つけて外出しなさい。そして、リラックスしよう。外から帰ってくると、あなたの判断はより確かなものになります。いつも仕事にへばりついていると、あなたは、判断力を失ってしまいます。

十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ。

優れた画家はふたつのものを描く。人と人の心の動きである。

食欲がないのに食べても健康に悪いように、やる気がないのに勉強しても記憶力が損なわれ、記憶したことは保存されない。

川の中ではあなたが触る水が一番最後に過ぎ去ったものであり、また、一番最初に来るものである。現在という時も同じである。

芸術に決して完成ということはない。途中で見切りをつけたものがあるだけだ。

どこか遠くへ行きなさい。仕事が小さく見えてきて、もっと全体がよく眺められるようになります。不調和やアンバランスがもっとよく見えてきます。

画家は孤独でなければならない。なぜなら、一人なら完全に自分自身になることができるからだ。たった一人の道連れでもいれば、半分しか自分ではなくなる。

誰も他人のやり方を真似すべきではない。なぜなら、真似をすれば自然の子供ではなく、自然の孫でしかない。我々には自然の形態がたくさん与えられているのだから、直接自然に触れることが大事だ。

質素であることは最も素敵なことだ。

悪を罰しない者は、悪をなせと命じているのだ。

私は障害に決して屈することはない。いかなる障害も、私の中に強い決意を生み出すのだから。

失われうるものを富と呼んではならない。徳こそ本当のわれわれの財産で、それを所有する人の本当の褒美なのである。

人間はやり通す力があるかないかによってのみ、称賛または非難に値する。

猫科の一番小さな動物、つまり猫は、最高傑作である

最も高貴な娯楽は、理解する喜びである

大いなる苦悩なくしては、如何なる完成せる才能もあり得ない。

必要であればあるほど拒まれるものがある。それは忠告だ。それを余計に必要とする人、すなわち無智な人々からいやがられる。

理解するための最良の手段は、自然の無限の作品をたっぷり鑑賞することだ。

こわがればこわがるほど、逃げれば逃げるほど、近くによってくるものがある。それは貧窮だ。逃げれば逃げるほど、君は悲惨になり安らぎをうしなう。

顔に人間の性格、人間の癖や性質を部分的に示す特徴が見られるというのは真実である。

美しいものと醜いものはともにあると互いに引き立て合う。

このところずっと、私は生き方を学んでいるつもりだったが、最初からずっと、死に方を学んでいたのだ

つねに恐れつつ進まぬ者は、数々の侮辱にあい、しばしば悔いることになる。

何かを主張をするのに権威を持ち出す人は全て、知性を使っているのではなく、ただ記憶力を使っているだけである。

私の仕事は、他人の言葉よりも自分の経験から引き出される。経験こそ立派な先生だ。

詩人は目に見える表現の中では画家よりはるか下に見られ、目に見えぬ表現の中では音楽家よりもはるか下に見られる

解剖して分かったことだが、人間は死ぬように出来ているのだ。

人物を描く人は、もし彼が対象になり切ることができないなら、これをつくりえないであろう。

画家の心は鏡に似ることを願わねばならぬ。鏡はつねに自分が対象としてもつものの色に変わり、自分の前におかれるものそのままの映像によって自己を満たすものである。

本当に物事が分かっている人は、大声を出さないものである。

あらゆるものの部分はそれ自身のうちに全体の性質を保っている。

あらゆるものは、他のあらゆるものと関連する。

自分の判断以上に自分を欺くものはない。

快楽のうしろには面倒と悔恨をもたらすものがついている。

私を軽蔑するな、私は貧乏ではないからな、やたらに沢山のものを欲しがる者こそ貧乏なのだ。

その理論が経験によって確証されないあの思索家たちの教訓を避けよ。

老いてからの欠乏を補うのに十分なものを青年時代に獲得しておけ。老年が食物として必要なのは「知恵」である。そのことを知る者は栄養不足にならぬよう、若いうちに努力せよ。

脅迫とはひとえに脅えた者の武器にすぎない

徳は、生まれると同時に、徳に反対する嫉妬をも生み出す。嫉妬を伴わない徳よりも、影を伴わない物体のほうが先に現れるだろう。

すべては、すべてから来る。すべては、すべてから創られ、すべては、すべてに戻っていく。すべては、すべてに包み込まれる。

多くの者が、虚偽の奇跡を教えて、妄想を煽って、蒙昧な大衆を欺いた。

無知や迷妄は、我らを誤り導く。哀れな人間たちよ、己が目を開け。

経験に裏付けられない、偉人の理論は避けよ。最初に抵抗する方が、最後に抵抗するより楽だ

手早さより勤勉を旨とするよう先ず心がけること。

私はいかに生きるかと思っている間、いかに死ぬかについて学んだ。

空腹でもないのに、食事をしては、病気になるように、意味も分からず、意味を求めるのは、勉強にならない。

人間が生きている世界は3次元である。3次元にあるものを3次元で表現するのは再現にすぎない。3次元のものを2次元に写し取り、2次元にはない立体感や奥行きまでをも表現することが真の芸術なのだ━。

心の窓を通して、魂は世界の美しさをじっと見つめる…自然の小さな景色のなかに宇宙のイメージが含まれていると、一体誰が信じられよう?

音楽は絵の妹と呼べるだろう。なぜならそれは聴覚に頼るからで、聴覚は第二番目の感覚だから。絵は何よりも優れていて、音楽より高く位置づけられている。というのも、絵は生まれるやいなや消えてしまうというようなことがないからだ。

ほめれば間違いだし、そしればなお悪い。君がそのことをよく理解していないときには。

一日で金持ちになりたいと思うものは一年で首を吊られる。

芸術家はたくさん仕事をするためには、時には描かずにいる必要がある。

大気のこの青い色は、本当の色ではないはずだ。暖かく湿った空気が蒸発して目に見えない細かい粒子になり、それがふたのように覆っている宇宙の黒い闇の下で太陽の光に照らされて、このような色に輝くのだ。

経験は決して間違えない。間違えるのは人間の判断だ。自分で実験してもいない結果を予測して、判断を間違えるのだ。

ここに集められたものは順不同に並んでいる。様々な論文からとったもので、あとで主題別に整理したいと思っている。それまでは、同じことを何度も繰り返すこともあるに違いない。読者よ、どうかそのことで私を責めないでいただきたい。【物理学に関する手記の序文】

同じ眼でながめた対象が、あるときは大きく、あるときは小さく見える。

人間の巧妙さが、自然が創造するものよりも美しくシンプルな、あるいは正確な発明をすることは決してできない。なぜなら自然の女神の創造物には何一つ欠けるところがなく、何一つ過分なものがないからである。

鉄が使用せずして錆び、水が腐りまたは寒中に凍るように、才能も用いずしてはそこなわれる。

よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ。

人間は古代人によって小宇宙と呼ばれた。この言葉は実に当を得ている。なぜなら、人間には肉を支える枠組みとしての骨があり、地球には土を支える岩がある。人間は血液という湖を持ち、そこでは肺が膨らんだり、しぼんだりして呼吸作用をしているように、地球には海があり、四六時中潮の満ち引きが宇宙の呼吸作用を繰り返す。血液の湖からは静脈が出ており、体中に枝分かれしていくように、海は地球に無限の水脈を広げている。

多くの人は、私を非難する正当な理由があると考えるだろう。判断力が未熟なために、権威ある人々の考えと私の見解が正反対であると断じ、私の仕事が単純で平易な経験から得られた問題提起だとは考えないのだ。

必然性は自然の女主人であり導き手である。

経験の弟子、レオナルド・ヴィンチ。

肉欲を抑制しない者は、動物の仲間になるが良い。

沢山を欲しがる者こそ、貧乏である。

私の職業は画家だ。絵画こそ最高の芸術である。

どんな部分も、全体に組み込まれるようにできている。だから、それ自体の未完成から逃れられる。

「幸せ」の入る場所に、嫉妬が待ち伏せしてこれを襲う。

あたかも良く過ごした一日が、安らかな眠りをもたらすように、良く生きられた一生は、安らかな死をもたらす。

人が一番惑わされやすいのは、自分自身の考えによってだ。

そんな小さな空間に、全宇宙の姿を抱えることができるなど誰が信じるだろう。

使わない鉄が錆びるように、たまった水が腐ったり凍ったりするように、我々の知性も使い続けなければ無駄になる。

よく過ごせた日には、安らかな眠りが訪れる。だから、よく過ごせた人生には、安らかな死が訪れる

知ることが少なければ愛することも少ない。

孤独であることは救われることである。

ちっぽけな確実さは大きな嘘に勝る。

単純であることは、究極の洗練である。

私の描くこの人体は、君の目の前にまるで本人がいるようにはっきりと見えるだろう。もし君が人間の体の各部位を解剖学的に完全に知りたいと思うなら、君あるいは君の目は、下から、前から、横から、また、回してみたり、どこに起点があるか調べたりしながら、いろいろ異なった面から観察しなければならない。私の絵は、どんな部位でも君にはっきりわかる。体の各部位を三つの視点から見て表現することが大切なのだ。

師匠を凌がない弟子は、やくざ者だ。

不透明な物体は表面に必ず光と影をまとっている。

洗練を極めていくと、単純さに辿り着く

老人が死ぬのは、熱が原因でないのなら静脈が原因だ。静脈壁がぶ厚くなり、しまいに詰まって、血液が流れなくなるからだ。

我々の周りにある偉大なことの中でも、無の存在が最も素晴らしい。その基本は時間的には過去と未来の間にあり、現在の何ものをも所有しないというところにある。この無は、全体に等しい部分、部分に等しい全体を持つ。分割できないものと割り切ることができるし、割っても掛けても、足しても引いても、同じ量になるのだ。

人間固有の行動がどれほど多様であるか君にはわかるだろうか。また動物や草木や花の種類がどれほど数多いか君にはわかるだろうか。山地や平地、泉、川、都市、公共建築物、住宅、そして人が使う道具、衣装、装飾、美術、この世はなんと学ぶべきことが多いことか。

苦労せず手に入るものは、幸運に値しない。

何にせよ、勉強したことを記憶したいと思ったら、以下の方法に従うとよい。同じものを何度も描いて「もう記憶してしまった」と思ったら、モデルを見ずに描いてみる。ただ、そのあとで、薄い滑らかなガラスの上でモデルをトレースしたものを、モデルなしで描いたものに乗せて合わせてみる。トレースしたものと描いたもののどこが符合するか注目する。また、どこで間違いを犯したか見つけ、二度と同じ間違えをしないために、そこを記憶する。何度も間違えるところは、心の修正をするために、モデルに戻って写してみても良い。

あらゆる自然の営みは、最も短い道を通る。

猫は、どんなに小さくても最高傑作である。

一日の始まりの時、南側の地平線のそばでは大気がバラ色に染まった雲にぼんやり霞んでいる。西の方はまだ暗く、東の方へ行くにつれて地平線のあたりの湿った水蒸気のせいで、実際の地平線よりも明るく見える。そして東にある白い家々はほとんど識別できない。一方、南の方は遠くへ行くほど、バラ色の度合いが濃くなり、西の方はそれがもっと暗い色合いになる。そしてその影は白い家々の手前で消えている。

「独創的な自然が創造したさまざまに不思議な形がたくさん寄り集まっているのを見たいものだ」という熱い思いに衝かれて、うす暗い崖の周りをしばらくさまよっていると、大きな洞穴の入り口に出くわした。しばらく、呆然としてその前で立ち尽くしていた。こんなものが存在するとは知らなかった。背を丸め、かがみ込んで左手を右ひざに充てると、まぶたが下がり、閉じる。その中に、何かを見つけることができるかどうか見極めようと、何度もそんなふうにかがみ込んだ。そうして、しばらくそこにいると、私の中に恐怖と願いのふたつが浮かび上がってきた。恐ろしげな暗い洞穴の恐怖と、その中に不思議なものがあるかどうか見たいという願いだ。

もし、想像の動物を本物のように見せたければ、たとえば、ドラゴンを取り上げてみると、頭はマスチフかセッター、目はネコ、耳はヤマアラシ、鼻はグレーハウンド、ライオンの眉毛に老いた雄鳥の額、ミズガメの首を使うとよい。

世界の創造主である神を裏切るまでに邪悪な顔なのです。難しいと思いますが、モデルを探し続けるつもりです。ですが、もし見つからなかったら、いつでも院長の顔がありますから。

故郷に帰りたい。あるいは原初の混沌に戻りたいという望みや願いを抱いている。明りに向かう蛾のように、春や夏の再訪を喜びとともに待ち望む人のように。自分の願うことがやってくるのが遅すぎると嘆き、自分の望むことが自分の破滅につながるとも知らず。しかしこの願いこそ、その本質において、人間の体に閉じ込められ、元に戻りたいと願っている元素の霊なのだ。この願いは、その本質において、自然に内在するものである。

君にはわかるだろうか。視覚こそがこの世界の美しさを包み込むのだ。視覚は天文学の師であり、人間のあらゆる技術を助け、導くものだ。視覚は人間を世界の隅々までおもむかせる。視覚は数学の様々な部門を支配する。視覚による知識は最も確実なものだ。それは星の距離や大きさを測り、星座の要素や性質や運行を発見し、そこから次に起こることを予言できるようになる。視覚は、建築と図面を生み、そして最後に絵画という聖なる芸術を創始した。おお視覚よ、汝は神の最も優れた創造物だ。汝の崇高さにふさわしい、どんな賛美の歌があろうか。どのような人々が、どんな言葉が、汝の達成したことを言い表せることか。

わからないことがあると私は答えを求めて田園をさまよった。なぜ貝殻が山の頂上で見つかるのか。しかも、海にあるはずのサンゴや海藻などの跡をつけて。雷はなぜ起こった後までなり続けるのか。雷光は起こった瞬間から目に見えるのに、雷鳴はなぜもっとあとになって聞こえるのか。水に石を投げると、水面に輪ができるのはなぜか。鳥はどうして空中にとどまっていられるのか。こういう数々の疑問や不思議な現象が私の心をとらえていた。

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