宮崎駿

宮崎 駿の名言集

僕は思いつめないように、思いつめないようにやってきたんです。思いつめて、この企画がいま通らないと、僕は生きている甲斐がないなんて思うと、すぐ生きた甲斐がなくなっちゃいますから

日本人の没落というときに、何が一番気になるかといったら、今後右肩上がりの経済成長が続くとか、マルチメディアがどうしたとかいうことよりも、この国にいる子供たちが元気なのかどうかということが、僕は一番気になります。

一人ひとりが自分は何をするかを考える時です。それぞれができる範囲のことをやればいい。木を残すことと近所を掃くことは、価値としては同じではないかと思うのです。

面白いものはこの世界にいっぱいある。キレイなものや、まだ出合ってないかもしれないけれど、いいこともいっぱいある。それを子どもたちに伝えたい。ただそれだけですね。映画の中じゃない。映画の向こうにいっぱいあるんです。

半端な仕事はやっちゃいけないですね。それは本当に思います。

悪いことをしても天罰が下るわけではなく、良いことをしてもお褒めにあずかるわけではない。じゃあ何が違ってくるかというと、顔が違ってくる。豚の顔になるのか、少しはましな顔になるのか。

結局あの、本当に思うけど趣味持ってる奴は駄目ですね。全部アニメーションに吸い取られてしまった人間でないと

理想を失わない現実主義者にならないといけないんです。理想のない現実主義者ならいくらでもいるんですよ

目の前の子供に「生まれてきてくれてよかった」って言いたい気持ちがあるから映画を作ろうって思うんです。

つい偉そうに文化人ヅラして「子育ての環境とは」などという発言をしてしまうことがありますが、たいてい誰も聞いていません。つまり、いくら発言をしてもなんの影響力もないのです。必要なのは、理念を語ることではなくて実際になにかをやることです。

人間は決定的なことって言葉で考えたりはしないんです。「どうして僕は、彼女が好きなんだろう」って考えたりはしない。そんなことは分析したって無駄なんですよ。

世の中に良いことってのは、めんどくさいんだよ

若い人たちは何か作品を作っても「まあ、それだけのものだ」っていう見きわめをつけてしまってる。善良だし、ちゃんと働くけど、どこかさめてるんですよね。でも押し流されたらいけないんです、絶対に。自分たちのやり方や生き方を見つけないといけないんですよ。

シータは、田舎娘だから、首なんかもすっごく太くしたんです。今の子供たちは、お姫さまを登場させると、それだけでひねくれちゃう、「かわいく生まれていいわね」って。じゃ、お姫さまなしでやろうと思って。でも、人間ってキラキラしてると魅力的ですよ。

幼いときにしこみ過ぎるとだめになるんです。少年野球のエースが、たいてい肩やヒジを壊しちゃうみたいに、好奇心そのものを奪ってしまう。

ぼくはいつも目からうろこが落ちたいと思ってるんです。全然落ちないですけど……。「こんなものみたいんじゃない」って思ってしまう。だから意地張って頑張ってるんです。でも、作るたびに「もう引退だ!」とわめいているんですけどね。

ほんとにみんながわかんなくなったとき、素っ頓狂なものをやるしかないんですよ。そういう役割でここに置かれてるんで。だから、わたしはつらいんですよ。

日本の鉛筆、もの凄くいいんですよ。もうドイツの文房具なんか遥かに超えてますよ。でも高いですから、鉛筆は。「シャープペンシルのほうが地球にやさしい」なんて言いかねないんだけど。だから鉛筆という材料をなくして未来があるのかっていう話です。

企画の発端ていうのは思いつきでも何でもいいんですよ。ただそれに肉付けしていく過程でキチンとやらなくちゃいけないんです。

人間の中に、暴力・攻撃的な衝動というものが、あるんだと思うんです。それをなくす事は出来ないので、むしろどういうふうにコントロールするかという事が、人間や人類に課せられた大きな課題だと思うのですけども。

人間が貴いと思う、「無私」とか「純粋」というこころの働きは、そこらにある石ころにもあるものです。最も人間的なのは「権謀」や「術策」とかで、これは自然にないものです

自分が善良な人間だから、善良な映画をつくるんじゃないですよ。自分がくだらない人間だと思ってるから、善良な映画をつくりたいと思うんです。善良なことが自分の中じゃなくても、どっかにそういうものがあるんじゃないかと思う気持ちがなかったら、とても作品をつくれないわけです。

自分で、すぐ自分を許せる人間は、大した仕事をやらない。

才能はたいていの人が持っているんだけど、才能のあるなしじゃなくて、それを発揮するエネルギーがあるかどうか。

あんまり自分がやりたいと思っていることを分析しようと思ったことはないんです。分析した途端にくだらなくなってくるから。

誰かを楽しませなければ、生きている意味がない。

自分がそれを好きか嫌いかってこと以外に、自分がそれをできるか、できないかってことを見極める必要がある。

宝島なんてないと思ってる。子供たちがたくさんいる。だけど、本当はそう思い込んで世界を狭くしてるだけじゃないのかなあ。出会えたら素晴らしい人とか、心打たれる風景はたくさんある。出会う前、見る前に諦めちゃいけない。

半分素人の方がいいんですよ。それは自分が選択して、自分がプロだからやるんじゃなくて、自分がこれをやりたいと思うからこれをやっているんだという…やっぱり精神の方が大事なんですよ。

僕は自分たちの仕事をクリエイティブな仕事というよりも、リレーのように考えています。僕らは子供の時に、誰かからバトンを貰ったんです。そのバトンをそのまま渡すんじゃなくて、自分の身体の中を一度通して、それを次の子供たちに渡すんだという。

あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。

子供っていうのは、可能性の生き物なんですよ。たくさんの選択肢を、毎日持ってるんです。大人も実はそうなんですけどね。

僕は本当のことを言いまして、あんまりメッセージ性っていうので映画をつくってはいなくて、もっと俗っぽいところで「わはは」と言いながら、本当はつくりたいなと思ってる人間ですから。もちろん真面目なものは真面目につくんなきゃいけないと思ってますし、子供のために作りたいとは思ってるんですけど。

僕は何かつくりたくなるとか、自己顕示欲とか、見栄とか、そういう業をいっぱい持っていますから、自分がこのままとりすまして、いいご隠居になるとは全然思っていないんです。だけど、なんかやるためには一回自由になりたいですね。

実写は楽ですからね。ビールが美味しいでしょ、一日労働するから。そうするとそれで充実しちゃうんですよ。どうも実写の人を見てると、そういう感じがするんですよ。 0宮崎駿の名言

次があるとかないとかっていう話はもういいですよ。それに関しては、天命だと思ってますから。

もう、とことん考える。ありとあらゆる方向を探るんです。とことん困ると、奥のほうでふたが開くんです。そのふたが開くと、最初に考えもしなかった方向が見えたりする。それでも、一歩進めるんです。

自分の才能を見極めるっていうのは一番恐ろしいことですから、辛い時もある。買いかぶるというか、やたらに根拠のない自信を持つ瞬間もある。その間を揺れ動きながらやるしかない。

他人に迷惑をかけないなんてくだらないことを誰が言ったのか知らないんですけれども、人間はいるだけでお互いに迷惑なんです。お互いに迷惑をかけあって生きているんだというふうに認識すべきだってぼくは思う

中小企業は特にそうですね。なんかやっぱり、みんな同じような待遇で、ちゃんと扱いたいと思ってても、それができないから、アルバイトにしたり日給月給にしてやってるわけで、それは申し訳ないなあっていう気持ちがどっかに働かないとやっぱり嫌です。

部屋で最新式のコンピューターに向かってポコポコやってるところからクリエイターは出てくるんじゃなくて、もっと古いものの集積の中から出てくるんだと思うんです。

地球のことを考えたら本当は人間なんていない方がいいんだ。

今の若者たちに対して一つだけ安心しているのは、彼らが戦争では一番役に立たないタイプの人間だという事。

とんでもない才能もっててね、情熱があって、それで人をちゃんと説得したり、話が通じたり、コミュニケーションできる能力をもっている。これがとても大事なことなんです。コミュニケーションの能力がなくて、才能のある人間はけっこういるんですよね。

今は、人間の都合のいいものだけが自然だと思われています。蚊やハエは要らないものだから自然ではない。殺したってかまわないんです。でも、そのような人間中心主義的な考えは根本的に間違いだと思います。人も獣も木々も水も、皆等しく生きる価値を持っている。

どこか日本の中に深い森があって、そこに入ってはいけなくて、そこにいろいろな動物がいて、それで散歩道もないんです。そういう世界が、深い森があるんだよという話が、親が子供たちに話せるような国ができたらいいなあと、本当に思うんです。

天災で、どんなに悲痛な思いをしても、この国の人々はそれでも生き続けようとする力を持っている。

自分も含めて、人っていうのは愚かなんだなあっていう、人間が考えてるより人間は複雑で、同時にそんなに賢くないんだなっていうことをうんざりするほど思い知りました。だからといって、僕は理想のない現実主義者になりたいと思ってる人間じゃないですから、そういうふうになるつもりは毛頭ありませんけど。

アニメーションは歩くことに始まり歩くことで終わる

やっぱり人に喜んでもらうのが好きなんですね。たぶん、それをものすごく気にして生きてるんじゃないかと思います。

カモシカがライオンに襲われて、死に物狂いのジャンプをする。その跳躍の瞬間にこそ、カモシカの本然がある。

小さい子が喜んだ姿を見るのは一番嬉しいことですね。小さい子が喜ぶ姿を見ると、大人も楽しくなりますからね。それが映画館全体を包んでいるというのがわかります。だから、人類は子供を産み続けるんですよ。

つまり軍事力で中国の膨張を止めようとするのは不可能だと思います。もっと違う方法を考えなければいけない、そのために私たちは平和憲法を作ったんだと思います。その考えは今も変わっていません。

こんな地震だらけで火山だらけの国で、原発なんてもってのほかです。

いつでも、どうしてこれが流行るのか、よくわらかないものが流行ります。それもいろいろあっていいんじゃないかと僕は勝手に思っています。

日本人であるということは僕にはよくわかりません。わかりませんが、本当の必要な知恵は、世界の隅っこでひそやかにいようというのが一番正しいと僕は思っています。

歴史というものに対する感覚がひどく鈍くなっているんだと思います。いま、歴史のある場所にいるんだという感覚が鈍くなっていて、このままずっと続くんだろう、みたいな感じがこの国に蔓延しているんだと思いますね。

僕は、沖縄は日本と中国が両方仲良くするところになるといいと思います。それが一番ふさわしいです。そして交易する。非常におおらかな心を持っている人たちですから、ちゃんとやっていけると思います。

人間は残酷なもの、残虐なものを自分たちの世界から排除したいと思ってヒューマニズムとか法律とか色んなものを作り上げて来ましたけども、実は自然界そのものが残忍なものなんですよ。

人間というのは空間に棲んでいるんだから、人間同士の関係だけでドラマを作っていればいいのではなくて、そこにある季節とか天候とか時間とか、そういうものを含めて、それが世界なんだから。太陽の光もそうだし、風もそうだし、雨もそうだし、そういうものも含めて世界を描かなければいけない。

「タタラ者」と言ったり「タタラ師」と言ったりした山の中の製鉄民、製鉄集団の話にずっと前から興味があったんです。製鉄の話自体は古いものなんです。「太陽の王子」を作った時に「鍛冶屋を出そう」と言ってね

これは本当に面白い話ですけど、奥日光―それはね、願いなんですよ。

漫画とかアニメーションばかり見ていると、基礎になるものがなくなる。基礎がトトロでは困る

アニメーションに関しては、これまで手塚さんが喋った事、主張した事、みんな間違いです。

ある程度の年齢に達しながら、仕事がいくらでも出来ると思いこんでいるのは、あきらかに老害がはじまっている

僕は何度もやめるといって騒ぎを起こしてきた人間なので、どうせまただろうと思われてると思うんですけど、今回は本気です。

車が運転できる限りはアトリエに通うが、今は休息の時期。そのうちにやりたいことも出てくると思うが、今の段階では約束すると破ることになるから

“破滅に向かって行く時代”を舞台にした「風立ちぬ」を製作することについて、私の家族からも、自分自身からもスタッフからも疑問が出ました。それにどういう風に答えるかで作りました。映画を見ないで論じても始まらないと思いますので、是非お金を払って見ていただけると。 0宮崎駿の名言

ボクのキャラは、人間の思いのある一部を取り出したキャラなんです。メカも、小さなものが好きなんです。「ヤマト」みたいなバカデッカイコックピットだと、チームワークなんてないでしょ。

最新流行のものはほとんど見てない。「好きなことをやってるだけで十分だ」って言って、昔ながらに生きているんですよ。

いつの間にか、シャープペンシルで描く中国のアニメーターにほとんど依存するような形に日本のアニメーションがなっちゃって、自分たちはもう、そこに根を下ろすことができないんで。もうジブリひとり旅に行くしかないっていう。

ぼくらが子供のころにみたものや聞いたものをいじくって、自分たちの味付けで出しているだけです。バトンタッチみたいなもんです。これを次の世代の人に渡せたらいいですね。

一人ひとりが立ち止まったら、色が黒かろうが白かろうが、ボスニア・ヘルツェゴビナにいようが奥尻島にいようが、みんな同じなんだ。家族のことを思って泣いたり叫んだり。

人もミミズもみな同じというところに、もう一回戻ったほうがいいよ。

最近の映画には成長神話みたいなものがあって、そのほとんどは成長すればなんでもいいと思ってますね。だけど現実の自分を見て、お前は成長したかと言われると、僕なんか何かこの60年、ただグルグル回っていただけのような気がするんです。

人間だけが生きるのではなくて、獣にも木々にも水にも生きる場所を与えるべきなのです。そういう思想が、かつての日本にはありました。

意気地なしですよね。みんな善良で、やさしい連中なんだけど、なんだろう、どうしてこんなに意気地なしなんだろうと。そういうオス蜂をいっぱい育てた巣箱だったんですね、この日本の社会は。

現代を切り口にした映画をつくれという人の発言を聞いてるとね、なんかそれを観に行ったら励まされて「俺は東京で生きていくぞ!」って思うようなものを言いますけど、こんな東京の中で生きてると、そんな映画なんか作れっこないじゃないですか!作りたくもないですよ!うんと嘘を重ねて、つくることはできるかもしれませんけど、僕はそんな映画をつくりたいとは全然思わないですね!

一番近いものには厳しくすべきだけども、遠く離れてやってるスタッフに対しては、配慮を自分でも持っていないとと思うんですよ。外注はひどいとかね、十把一絡にそういうことをすぐ言う奴がいますけど、もう大っ嫌いですね、そういう奴は。

一番近いものには厳しくすべきだけども、遠く離れてやってるスタッフに対しては、配慮を自分でも持っていないとと思うんですよ。外注はひどいとかね、十把一絡にそういうことをすぐ言う奴がいますけど、もう大っ嫌いですね、そういう奴は。

人間だけはつくることできないですからね。場所はつくることができても。

世の中で一般的にいっぱい言われているような、こういうものを訴えたいからとか、というので作品を作ったらくだらないものです。「命の大切さ」って、だったら「命は大切だ」って書きゃいいじゃないですか。そういうふうにテーマを簡単に抜き出せるものは、みんな、いかがわしいと思いますね。

魔女の宅急便が当たったせいで、それまでの作品も大当たりしてたんじゃないかっていう錯覚を世間が起こしてるんですよね。そうじゃないことを僕は一番よく知っているんです。苦しいっていうよりも全然赤字ですよね、興行だけだったらね。そういうことも含めて、やっぱり正気にならなきゃ駄目だっていう。いつも正気のつもりだったけど、一段と正気になんなきゃ駄目かなっていうふうに思います。

仕事に直接関係あることばかりやっていたら、仕事にならないですよ。

隣の国の恨みは、まだ消えてない。これ、消えてないですよ。もう、法的に解決はついたはずだ、って消えてないから、くすぶってるんで。それは、なんとかしなきゃいけないことなんですが、世界全体の歴史から見ると、ずいぶん分かりやすい歴史なんですよ。

ぼくは、もの凄い量の戦記ものを読んだんです。中学生の頃から。それで、何が分かったかっていうと、読んだだけで、こいつ嘘書いてるって分かるようになったんですね。ほんとうのこと書いてる人間っていうのは、ほんの僅かいます。

安倍首相は、自分は憲法の解釈を変えた偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思いますが、愚劣なことだと思っています。

この水と緑と、資源と言ったらコメが穫れるくらいです。でも今僕らがやっている生活は、他所からかきあつめてきて、それを使い尽くしていくという、そういう生活です。それは長く続かないでしょう。

僕がイギリスのブリストルにある、アードマン・スタジオのスタッフと交流したときに、彼女たちがサインしてくれとDVDを持ってきました。完全な海賊版でした。どういう風になっているのかわたしには見当も付きません。

平和憲法というのは、占領軍が押し付けたというよりも、1928年の国際連盟のきっかけにもなった不戦条約の精神を引き継いでいるもので、決して歴史的に孤立しているものでも、占領軍に押し付けられただけのものでもないと思うんです。

何か、世界がもっと根元の方でみしみしと悪くなっていくようです。ですから、アニメーションのことだけ論じてもしょうがないんじゃないかなと思います。

15年に渡る日本の戦争は、惨憺たる経験を日本人にも与えたんです。300万人の死者です。この経験は、多くの、つまり私たちのちょっと上の世代にとっては忘れがたいことです。

100年や200年の短い歴史よりももっと長い、何億年にもつながる歴史をアニメーションは描いたほうがいいと思っています。

ぼくはもう、一人の個人としてはもうだいたい先が見えたなという感じになってます。このまま仕事を続ければうまく行って手塚さんの年令で死ぬだろうなって気がするんです。そうなりたくないから、「これを最後にしたい」って言ってるだけでね、他のこともやりたいから。アニメーションだけやって「あーっ忙しい」とか「クソーッ」とか言いながら死ぬのイヤですから。

室町期は充分世知辛い時代ですよ。要するにルール無視の時代になったわけですから。鎌倉まではルールがあったんですから。それが無くなって日本人の行動原理が損得だけで動くようにになってね、ちょっと上から見るとこいつ何考えてやってるんだろうというのが良く分からないのが「太平記」の世界だから。皇国史観でくくると必ずはみ出すものがあってね。

「応仁の乱」なんてわけのわからない戦でしょ。そういうことも含めて、映画で作られ来た時代劇では収まらない世界がそこにあるから、それを作ってみたいなと思ったんです。

平和憲法というのは、それに対する光が差し込むような体験であったんです。これは今の若い日本人にはむしろ通じないくらいの大きな力だったんです。平和憲法というのは。

幸運と才能さえあれば、何とかなると思います。

ロクに人生経験も無いオタクを雇うつもりはない。火を表現するには火に触れないと駄目だ。

希望を持って生きねばならぬ、という価値観は捨てた方がいいし、本当はこの世は生きるに値しない。でも子供に向かってそんなことは言えないので「とりあえず生きてみて下さい」と言うのが私の本音です。

本当に大切なものは、iナントカじゃ手に入らない

映画を見ていただければ、わかると思っていますので。いろんな言葉にだまされないで、今度の映画も見ていただけたらと思います。

いまのような、どこに自分たちが行くんだろうと、自分で考えないとわからない時代が来たときに、歴史的なことに対する無知とかいうのはいずれしっぺ返しが来る。

本を読むから考えが深くなる、なんていうことはあまり考えなくてもいいんじゃないでしょうか。本を読むと立派になるかというとそんなことはないですからね

才能とは、情熱を持続させる能力のこと。

僕は思想家になるよりも、目の前にいる子供たちに映画をつくってるということが一番大事だと思えたから、思想家になんかなりたくないですから。だいたい、僕が言ってるようなことはもっと立派なお坊さんたちが遥か昔から言ってるんです。

商売ってのは、苦労するに決まってるんです。

ぼくには、鉛筆と紙があればいい。

他にもやりたいこといっぱいあるんですよ。仕事っていうのは、離れるとわかった途端に、ものすごく未練が残るものですから。だから、自分の知り合いたちのリタイアを見てみても、リタイアが下手ですね。そういうのを見るとね、未練というのは一番みっともないものです。

60人、さらにその外側に200人ぐらいの人間が寄ってたかってやることを考えたときに、その人間たちが全員わかんなくてもいいやっていうふうに作るのは、僕はあんまり好きじゃないです。

面倒くさいことにこそ大切なものがある。

日本ということに限定しなくてもいいんですが、人間にとって自然というのはどういう意味を持っているんだろうと。「自然」という言葉は非常に曖昧ですけれども、要するに人間の周りにまだ残っている他の生物ですね。動物たちだけじゃなくて、たくさんの植物たちも…そういうものの持っている役割にもっと光を当てようということです。

もっと前だったら能天気なものを作った筈なんです。それが「ナウシカ」なんていうこんがらがった作品を作り始めたのは、時代がこんがらがって来てその結果なんだとぼくは思ってるんですけどね。「自然は大切です」とか「宇宙船地球号」とかね、そういう甘い言葉で括れるほど単純な問題ではないんです。

つまり僕はアメリカに非常に大事な友人たちがずいぶんいるんです。極めて誠実な、本当に友情に厚い友人ですが、アメリカの文化は僕は好きではありません。アメリカの生活様式も日本に多く浸透している色々な生活のやりかたも、基本的に好きじゃない人間なので、そういう色眼鏡だけで見てしまいます。

日本人は、要するに日本人の顔が嫌いだ。

ボクは女性が強い方が落ちつくんですよ。

「おまえのところには悪人が出てこないな」っていうふうに言われますけど、悪人が出ないようにしてるんであって、僕は回復可能なもの以外は出したくないです。本当に愚かで、描くにも値しない人間を、僕らは苦労して描く必要はないですよ!みんなヒーヒー言って、安い賃金で、肩を凝らしながら夜中まで灯りをつけてゴソゴソやってね、それで描きたくもないものをなんで描かなきゃいけないんですか。僕は描きたいものを描きたいですよ。

黄金パターンは黄金パターンであっても、それを活き活きとできるかどうかなんですよ。男と女がいて恋をするなんていうのは、もう大昔からいくらでもやられてることでね、みんなすっかり見飽きたパターンですよ。それでも、やっぱり説得力を持ってて感動できる恋物語と、そんなもん勝手にすればっていう恋物語ができてしまう。それは作る側が、その恋という問題に対して、毎度おなじみだけど、どれほど真摯になれるかどうかでしょう。だから、僕はパターン化することについては全然恐れていません。

伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。

魔女の宅急便のときは、本当にみんな貧乏になっちゃって。作品の精度を上げようと思って、一枚あたりに手間がかかるようになると、能率が上がらないから貧乏になっちゃうんです。原画を描いていても給料が10万円にいかない子とかね、そういうのが出始めちゃった。本当にこのままのやり方でつくり続けるなら、ちゃんと待遇をしなきゃいけないなっていう。だけど、ちゃんとし待遇をすると絶対生産性が悪くなる。社員化なんかしたら生産性が悪くなるのは、もう目に見えてるんです。だけど、つくり続けるならそっちを選ばなきゃいけない。

ジブリでいつも作業が始まる前に、掃除をしてくれるおじいさんとおばあちゃんがいるんですけど、たぶん一番丁寧なあいさつをするのは鈴木さんと僕です。本当によくやってくれるもんねえ。「どうもありがとうございます。おはようございます」って言うと、向こうも「おはようございます」って。ほんとそうなんですよ。だから、その前を、ボソーッとした顔して耳栓なんかして音楽なんか聴いてるやつが通るとね、蹴飛ばしたくなるんですよ。お前たちの国は滅びるぞってね

みんな自分よりバカだと思ったらおしまいですよ。自分の方が才能があるとか、そういうものの見方で見る人間っていうのはいますけど、あるいはなにがなんでも自分のものをやらなければ生きては帰れないとかね、そういう人間の方が僕が見てる範囲だと伸びないですね。先輩は先輩として受け入れてる人間の方がちゃんと着実にやっていきますよ。僕の知ってる範囲ではそうです。たぶん、他の職場でもそうなんじゃないかなあと思いますけど。

ある面倒くさいカットを外注のプロダクションがやってくれたんですよ。それがとてもよかったんです。だから、これはお礼を言った方がいいなと思ったから、なんかの拍子に電話がつながったとき替わってもらって「いやあ、とってもいいカットでした。どうもありがとうございました」って言ったらね、そのあとその人は泣いたって聞いて。別に泣かせるつもりで言ったわけじゃないですけど。ただそういう配慮がもう少しできたらなんかいいのになあと思いました。

観終わったときに、実に「ああ、映画を観た!」っていうような、そういう映画をつくりたいです。本当にそれだけですよ。「ああ、金を払って得した」とか「観に来てよかった」っていうような。観た人がちょっと元気になるとか、ちょっと気持ちが新鮮になったとか、そのくらいのところが僕らの狙い目だなあと思うんだけど、でも、そういう映画をつくるためには、やっぱり映像表現とか内容についても緊張感を失ってはいけないと思うんです。なかなかそういかないんで困ってるんですよ。

いまはニヒリスティックになるのが一番簡単な世の中なんです。そう思いません?誰でもそういうものを持ってるし、それが浅かろうか深かろうが、たぶん大抵浅いだろうと思うんですけど、ニヒリスティックになったり、ヤケクソになったり、刹那的になるってことを、いま、僕は少しも肯定したくない。それは自分に対する敗北ですよ。自分の日常生活がどれほど馬鹿げてて、もし自分の車に機関砲がついてたら周り中を撃ちまくりながら走ってるだろうと思っても。

3分と観られないですね。観るに堪えないです。僕はああいうもの、もういらないですよ。最初の絵コンテを見ただけで「エライこと始めやがったな、この野郎」って思ったんですけど、まあ終わってよかったですね。テレビシリーズのとき、庵野がどういう状態だったか聞いていましたから。机の横に布団敷いて、そこから出たり入ったりしてやってるっていうね。庵野のことだから、どうせ風呂入ってないんだろうなとか。それはもうわかりますよ。中身については、観なくてもいいんです。

テロのせいっていうのも変な言い方ですけど、いままでは100年単位で時代が変わるなんていうのは滑稽だと思ってたんですよ。だけど、やっぱり変わるんだなという。同時に、文明観も歴史観も国家観ももうとんでもない勢いで揺らいで変わりつつあるのに、アニメーションだけが自分の狭い範囲の常識とか習慣とかっていうので、日本の興行界で云々とか、ジャパニメーションがどうのこうのとか、そういう本当にくだらないことに左右されていては、実に惨めなみすぼらしい形で破産していかざるを得ないんじゃないかって。そうすると、ずーっと逃げ続けてきた根底にあるものに対して、ちゃんと対応した作品をつくんなきゃいけないと思うんです。

映画を見てないんですね、実は。映画館に行かなくなっちゃいましたから。テレビでやってるのをたまたま観かけたり、「これは面白いよ」って友人がビデオで持ってきたやつをじゃあ観るかって観たりするぐらいで。どういう監督が好きだとか、ポーランド映画がいいとか、そういう視点で映画を観てこなかったんです。60年代や子供のときにはずいぶん観てましたけど、ある監督に執着して、その監督を追いかけるっていうことは一回もしていないです。

54個の原発が取り囲んでるところだから、戦争なんかできっこないって、その通りなんですけど。それだけじゃなくて、日本は知恵でなんとかやっていける場所にいると思います。民族と宗教が入り乱れて、ぐしゃぐしゃになって、しかも自然破壊と、どうして良いか分からない人口を抱えてやっていく国々に比べたら、日本はなんとかなるんじゃないかと、ぼくは思ってます。

先ほどの、日本と中国の問題、共同声明について、私はあの侵略戦争は完全な間違いで、多大な損害を中国の人々に与えたことについて深く反省していると明言しなければならないと思っている人間です。これを政治的な駆け引きとして双方で何かごちゃごちゃやるのは良くない。あらゆる政治と関係なく、この日本は長期に渡る、大陸における愚劣な行為について深く反省しなければいけないと思っています。それを忘れたがっている人ががいっぱいいることも知っていますが、忘れてはいけないことです。

アニメーションは、いろいろな作品が考えられますが、今、私が作ろうとしている作品は、こんな小さな毛虫の話です。指でつつくだけで死んでしまいます。この小さな毛虫が葉っぱにくっいている生活を描くつもりです。それはアニメーションが生命の本質的な部分に迫ったほうが、アニメーションとしては表現しやすいのではないかと思っているからなんです。

自然というのは美しくてとてもいいものであると同時にとても凶暴で恐ろしいものなんですよ。残忍なものだと思うんです。この個体とこの個体がどうして生き残るかというと、こいつはたまたま何かに喰われたとか、樹が倒れて来て死んだとか、残忍でしょ?そういう不条理なもの、あるいは意味もなく突然抹殺するものに対して「残忍」とか「野獣のような」とかそういう形容詞を作って来たんですね。大した野獣なんて日本にはいないのにね。「人間のように残酷だ」という形容詞は使わないですよね。実は人間の方が残酷なのに。

とにかく、世界全体―とは言いませんが、ちょっと不景気になったくらいで日本人がこんなに自信を失うのか―というくらいに情ない時期にですよ、ぼくらがこの映画を作るのなら、やっぱり自分たちがぶつかっている問題の本質に立ち向かっていく作品を挑まなかったら、今までの十年がどっかでいい加減になるな、と思ったんです

僕はやっぱり、やっていけないことはやっていけいないんだということでしかないんじゃないかと思います。他国を自国のための犠牲にして侵略することは、絶対やってはならない。どんな理由をくっつけても、どんなに美化しても美化しきれない。その原則だけは絶対守るべきであると思います。侵略してはいけないんです。それで、私たちは島国ですから一番やりやすいはずです。

自分より経験のある人に尋ねることを積極的にしたらいいと思います。個人主義の時代というのは会社でも同じなのでしょうが、それが極端になると、わからないことを人に聞けないんですよね。一人で抱え込んでジタバタしている。ジブリの鈴木敏夫プロデューサーは還暦を過ぎていますが、知らないことがあれば相手が若い人であってもすぐに尋ねます。宮崎駿も同じで、決して自分一人では解決せず、「鈴木さん、これどうすればいい?」って聞ける人です。

女性が強くて美しいから主人公が多い。

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