村上春樹

村上 春樹の名言集

日本の小説家、文学翻訳家。

京都府京都市伏見区に生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ。

早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。

1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。

その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある。

日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している。

2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し、以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている。 精力的に、フィッツジェラルドやチャンドラー作品などを翻訳。

また、随筆・紀行文・ノンフィクション等も多く出版している。

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今日は、村上春樹氏の名言をご紹介します!😊 すべて見たい方はプロフィールリンクよりどうぞ…! ーーー 日本の小説家、文学翻訳家。 京都府京都市伏見区に生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ。 早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。 1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。 その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある。 日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している。 2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し、以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている。 精力的に、フィッツジェラルドやチャンドラー作品などを翻訳。 また、随筆・紀行文・ノンフィクション等も多く出版している。 ーーー #Meigenbot #めいげんぼっと #村上春樹 #村上春樹ワールド #村上春樹で語る育児 #harukimurakami #名言 #格言 #悩み #人生 #迷い #スッキリ #幸せ #心 #心理 #深層心理 #好調 #不調 #スポーツ #自己啓発 #ビジネス #勉強 #宗教 #名言シリーズ #名言セラピー #恋愛 #恋愛ポエム #恋愛相談 #成功哲学 #文学

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目に見えるものが、ほんとうのものとは限らない。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

深刻になることは必ずしも、真実に近づくこと…ではない。

自分に同情するな。自分に同情するのは、下劣な人間のやることだ。

遠くから見れば、大抵のものは綺麗に見える。

人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失っていきます。そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。

僕たちは一年ごと、一月ごと、一日ごとに齢を取っていく。時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐ろしいことに、それは事実なのだ。

インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。

僕らはとても不完全な存在だし、何から何まで要領よくうまくやることなんて不可能だ。不得意な人には不得意な人のスタイルがあるべきなのだ。 0村上春樹の名言ふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。

僕は逃げられないし、逃げるべきではないのだ。それが僕の得た結論だった。たとえどこに行ったところで、それは必ず僕を追いかけてくるだろう。どこまでも。

人生でいちばんきついのは、心ならずも誰かを傷つけてしまうことであって、自分が傷つくことではありません。

多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる。

慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。

孤独好きな性格を守るのに、誰にも迷惑をかけてないはずだという論理は逃げである。孤独は闘い取るものだ。闘い取られていない孤独は、いつか人の心を蝕む

月の裏側に一人残されていたような恐怖を自分のことのように想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。

人は勝つこともあるし、負けることもあります。でもその深みを理解していれば、人はたとえ負けたとしても、傷つきはしません。人はあらゆるものに勝つわけにはいかないんです。人はいつか必ず負けます。大事なのはその深みを理解することなのです。

ものごとがあまりに完全だと、そのあとに決まって反動がやってくる。それが世のならいだ。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

信仰の深さと不寛容さは、常に裏表の関係にあります。

流れというものが出てくるのを待つのは辛いもんだ。しかし待たねばならんときには、待たねばならん。

人々は闇の中から出てくる何かを見つけることで闇の中から救われることができる。

少しずつ向上する。少しずつだけれど、それでも向上は向上だ。

私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。

誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。

罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。

非常に簡単な言葉で、非常に複雑な物語を語りたい。

私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。

僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ、僕はどこにもたどりつけなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。

この世界において、退屈でないものには人はすぐ飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。

人はどんどん変わっていくし、過去の発言に縛られたくありません。

希望があるところには必ず試練があるものだから。

過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。

何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクついてるし、何も持ってないやつは永遠に何ももてないんじゃないかと心配してる。みんな同じさ。

どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。

小説家が嘘を言っても非道徳的と批判されることはありません。それどころか、その嘘が大きければ大きいほど、うまい嘘であればいっそう、一般市民や批評家からの称賛が大きくなります。

小説を書く、物語を書く、というのは煎じ詰めて言えば、「経験していないことの記憶をたどる」という作業なんです。

制度は自己増殖してわたしたちを殺すようになったり、わたしたちに他人を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。

どれほどこっそり息を潜めていても、そのうちに誰かが必ずあなたを見つけ出します。

ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明快に解くことになるはずだ。

僕がエルサレム賞を受賞した際も、インターネットで反発が盛り上がったようだ。でもそれは僕が受賞するか拒否するかという白か黒かの二元論でしかなく、現地に行って何ができるかと一歩つっこんだところで議論されることはほとんどなかった。

公正さというのは極めて限定された世界でしか通用しない概念のひとつだ。しかしその概念はすべての位相に及ぶ。

今日は嘘をつくつもりはありません。できる限り正直になります。嘘をつかない日は年にほんのわずかしかないのですが、今日がちょうどその日に当たったようです。

私たちがまともな点は…自分たちがまともじゃないって、わかっていることよね。

誰もが恋をすることによって、自分自身の欠けた一部を探しているものだからさ。だから恋をしている相手について考えると、多少の差こそあれ、いつも哀しい気持ちになる。

身体を鍛えていることもそうですけど、僕にとっての翻訳って、いまよりほんのちょっとでもよい小説を書くために続けてきたものなんです。

僕は小説家として、本当に欲が深いんですよ。でも、すべての小説家は自分の書くものに対して欲深であるべきなんじゃないのかなとも思います。現状で満足していたらどうしようもないですから。

僕はもうかれこれ30年も小説を書いてきたことになりますけど、ホントにまだ発展途上だと思っています。だから、他人のことをとやかく言えるような余裕はまったくないんです。目の前にある、いま、自分が書いている小説のことだけで精一杯ですから。

世の中の人間の大半は、自分の頭でものを考えることなんてできない。そしてものを考えない人間に限って他人の話を聞かない。

僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。

死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的にすでに含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることができるものではないのだ。

思い出はあなたの身体を内側から温めてくれます。でもそれと同時にあなたの身体を内側から激しく切り裂いていきます。

目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。目を閉じて何かが消えるわけじゃないんだ。それどころか、次に目を開けたときにはものごとはもっと悪くなっている。私たちはそういう世界に住んでいるんだよ。

僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。僕らはそんなふうに生きているんだ。

世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいないんだ。求めていると思いこんでいるだけだ。すべては幻想だ。

どれだけ進行を遅らせたところで、老いは必ずその取りぶんを取っていく。

私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。

世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ。

だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってね、地底に吸いこまれていく。

本当にまれなほど徹底した弱さは全世界を破壊するほどの過激な観念を生んでしまう。

あなたの退屈さはあなたが考えているほど強固なものじゃないかもしれないということよ。

あなたの人生が退屈なんじゃなくて、退屈な人生を求めているのがあなたじゃないかってね。それは間違ってる?

まるで何もない十年だ手に入れたものの全ては無価値で成し遂げたものの全ては無意味そこから得たものは退屈さだけだった。

人間というのは実際には、そんなに簡単に自分の力でものごとを選択したりできないものなんじゃないかな。

自分がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。

何も考えてはいけない、と僕は思った。想像してはいけない。間宮中尉は手紙の中でそう書いていた。想像する事がここでは命取りになるのだ。

頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわからないことはいっぱいある。それが普通の人だもの。

彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。

だから正確に言えば、私はここでの仕事を楽しんでいるというわけではないのです。私はただ、この仕事を全体的に受け入れようとしているだけです。

宗教とは真実よりもむしろ美しい仮説を提供するもの。

僕らは収支決算表を睨んで生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そうだろ?

最初からああだこうだとものごとを決めずに、状況に応じて素直に耳をすませること、心と頭をいつもオープンにしておくこと。

俺はときどき目を閉じて、その言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。すると気持ちが不思議に落ち着くんだ。冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる。

何が善なるものであれ、何が悪なるものであれ、これからは私が原理であり、私が方向なのだ。

ここは見世物の世界何から何までつくりものでも私を信じてくれたならすべてが本物になる。

ただし希望は数が少なく、おおかた抽象的だが、試練はいやというほどあって、おおかた具象的だ。

彼が感じている温かみは、痛みと対になって訪れるものなのだ。痛みを受け入れない限り、温かみもやってこない。それは交換取引のようなものなのだ。

青豆はその温もりをここまで伝えに来てくれたのだ。天吾はそう思った。それが彼女が二十年前に、あの教室で手渡してくれたパーケージの意味だった。

青豆をみつけよう、と天吾はあらためて心を定めた。何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと。

ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ。

人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかない意味を持つ風景。

でもやっとわかってきたんだ。彼女は概念でもないし、象徴でもないし、喩えでもない。温もりのある肉体と、動きのある魂を持った現実の存在なんだ。

警察ってとこは、来るときは車に乗っけてくれるんだが、帰りの足のことなんぞ気にもかけない。

欠点の多い人間は同じような欠点の多い人間に対して同情的になりがちなものなのだ。

人生なんてどう転んでもクソみたいなものなんだ。

すばらしい本を読んだ時、誰かに伝えたいと思う。他者に語ることで感動をさらに確かなものにしようとする。そういう誰かと出会える場が、身近に一つでも多くあるような社会こそ、文化的に豊かだと言える気がする。

心というものはただそこにあるものなんだ。風と同じさ。君はその動きを感じるだけでいいんだ。

懲りるのは良いことだ。人は懲りると用心深くなる。用心深くなると怪我をしなくなる。良い樵というのは体にひとつだけ傷を持っているもんさ。それ以上でもなく、それ以下でもない。ひとつだけさ。

日常に飲み込まれて、どれが傷なのかわからなくなっちゃうんだ。でもそれはそこにある。傷というのはそういうものなんだ。これといって取り出して見せることのできるものじゃないし、見せることのできるものは、そんなの大した傷じゃない。

現在、小説はむずかしい時期を迎えているとよく言われます。人は小説を読まなくなったということが世間の通説になっています。しかし僕はそのようには思いません。我々にできることは、我々しかできないことは、まだまわりにたくさんあるはずです。僕はそう信じています。

僕はずっと小説を書いているけれど、ものを書く上でも、そういう感情の記憶ってすごく大事だ。たとえ年をとっても、そういうみずみずしい原風景を心の中に残している人は、体内の暖炉に火を保っているのと同じで、それほど寒々しくは老け込まないものだ。

宗教団体は接近するのがもっともむずかしい相手のひとつです。

休暇と友だちは、人生においてもっとも素晴らしい二つのものだ。

洋服や装身具というのは、その人の内側にあるものを隠すものではなく、むしろ引き立たせるためのものだと考えています。

どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。

本当に本を大事にする人は、携帯電話で読める時代になったとしても、ちゃんと書物を買って読み続けていると思う。世間の大多数の人々は、そのときの一番便利なメディアに流れていくかもしれないけれど、どんな時代にもそうじゃない人が確実にいます。

科学とは科学そのもののために存在するべきだと私は確信しておるのです。

しかし歩かない。僕はなにも歩くためにこのレースに参加したんじゃない。走るために参加したのだ。そのために――そのためだけに飛行機に乗ってわざわざ日本の北端にまでやってきたのだ。どんなに走るスピードが落ちたとしても、歩くわけには行かない。

自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ。

百のうち九十までは、自分では実際に体験したことのないことです。僕自身の実際の人生は、かなり退屈で、物静かなものです。しかし、どのようなささやかな、日常的なことからでも、大きな、深いドラマを引き出していくのは、作家の仕事であると思います。

本当の自分というものがなくては、人はそもそも生きていくことはできないんだよ。それは地面と同じなんだ。地面がなかったら、そこに何かを作るということはできないんだよ。

汚れてもいい古い靴がひとつあると、何かのときにけっこう便利なものですよ。

想像というのは鳥のように自由で、海のように広いものだ。誰にもそれをとめることはできない。

秘密というのはそれを知っている人間が少ないからこそ秘密なのだ。

一人でもいいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえ、その人と一緒になることができなくても。

村上春樹あれは努力じゃなくてただの労働だ。俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ。

一度死んでしまえば、それ以上失うべきものは何もない。それが死の優れた点だ。

例えば「壁と卵」の話をいくら感動的と言われても、そういう生のメッセージはいずれ消費され力は低下するだろう。

昔スティーヴン・キングが「ウンコ投げ競争の優勝者は、手がいちばん汚れてない人間だ」と言いました。

人間には欲望とプライドの中間点のようなものが必ずある。全ての物体に重心があるようにね。

この世の中に、何も求めるべきものを持たない寂寥感ほど過酷なものは他にありません。

2003年にサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を新訳してから、06年には「グレート・ギャツビー」、07年には「ロング・グッドバイ」、08年には「ティファニーで朝食を」と古典の新訳を続けています。どれも、僕が10代に読んで好きだった本です。10代の読書というのは、すごく残るんですよね。それが、僕自身でも小説を書くときの滋養になってきました。

翻訳って究極の精読なんですよ。一字一句をゆるがせにできない中で熟読するので、すごく小説の勉強になる。作家や文壇との付き合いもほとんどない僕にとっては、翻訳が唯一の文章修業みたいなものでした。わからないところがあれば、一日中、たった一行の文章とにらめっこして考え込むのは、小説を書くうえでもいい頭の運動になるんです。

これはどんな分野でもそうだと思いますけど、これはすごい、と自分が本当に100%認められる実例がちゃんと存在していると思えることは素晴らしいことですよ。それはちょうどギャツビーにとっての沖合の緑色の灯火のようなものですね。僕にとっては、それが新訳を手掛けたこれらの小説なんです。

人は誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。

傲慢に聞こえるかもしれないけれど、いま、それなりの年齢になってみて、学ぶべきものはだいたい学んだなという印象があるんです。あとはもう、自分の手で自分の方法を拓いていくしかないんですよ。道のないところに何とか道をつくっていくしかない。

他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。

孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの。

あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない。

想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された思想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。

ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係な「なにか」じゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。

君はじっさいにそいつをくぐり抜けることになる。そのはげしい砂嵐を。形而上的で象徴的な砂嵐を。でも形而上的であり象徴的でありながら、同時にそいつは千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。何人もの人たちがそこで血を流し、君自身もまた血を流すだろう。

幸福は一種類しかないが、不幸は人それぞれに千差万別だ。

トルストイが指摘しているようにね。幸福とは寓話であり、不幸とは物語である。

僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける。大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。

もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。覚えておくといい。

退屈さの中に、固有の意味を見いだしていくことになります。意味というのは、一種の痛み止めなのです。

女というのはまるで鮭みたいだ。なんのかのと言ったって、みんな必ず同じ場所に戻りつくのだ。

世の中に存在するあらゆる傾向はすべて宿命的な病いなのだ。

好奇心というのは信用のできない調子のいい友達と同じだよ。君のことを焚きつけて、適当なところですっと消えてしまうことだってある。

もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など失くなってしまうのかもしれない。

この作品は、芥川賞を受賞すべきであった。その事により、芥川賞は自滅し、現今の商業文学誌はすべて廃れるべきであった。

どんな髭剃りにもその哲学がある。

資格というのは、あなたがこれから作っていくものよ。

俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。

弱さというのは体の中で腐っていくものなんだ自分の中で何かが確実に腐っていくというのが、またそれを本人が感じつづけるというのがどういうことか、君にわかるか?

もうそれまでの現実否定で小説を書いても、それは人を動かさないよ。

この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。

ぼくにはあなたの勇気と正義が必要なんです。あなたがぼくのうしろにいて、「かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい」と声をかけてくれることが必要なのです。

そいつはなによりなことだ、と彼は思う。人の死はすべからく悼まれるべきなのだ。たとえほんの短い時間であったとしても。

そんなことちらりとも頭をよぎらない。そうだろう?しかし誘拐されるときはちゃんと誘拐されるんだよ。それはなんと言えばいいか、超現実的な感覚を伴うものだ。

私自身のために生きることはできなかった。そんな可能性は私からあらかじめ奪われてしまっていた。でもそのかわり、彼のために死ぬことができる。それでいい。

「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルが言った。「ほうほう」と残りの大人が声を合わせた。「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。

そしてそこであんたはあんた自身になれるのだ。それに比べれば、この今の世界はみせかけのまぼろしのようなものに過ぎんのです。

気の利いた女の子というのは三百種類くらいの返事のしかたを知っているのだ。そして離婚経験のある三十五歳の疲れた男に対しても平等にそれを与えてくれるのだ。

彼らはどのあたりまでが周到で、どのあたりからがやり過ぎになるかを心得ている。ジェイ・ギャツビーの図書室と同じだ。本物の書物は揃える。しかしページを切ることまではしない。

おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。

僕は絶滅危惧種の動物のようなんです。イリオモテヤマネコみたいな。

相手が誰であっても、何であっても、話し合わないよりは話し合った方がいい。

一番恐れなけりゃならんのは、これから先、移植手術が成功すればするほど、「俺の臓器は誰にもやりたくない」という者が白い目で見られる風潮ができあがっていくことだ。

学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。

物事には然るべき時期というのがあります。潮の満干と同じことです。誰にもそれを変えることはできません。待つべき時にはただ待つしかないのです。

差別されるのがどういうことなのか、どれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。

僕たちはいつも、たがいにすれちがっています。相互に理解しあうことはできますが、一般的に言って、距離は残る。交差し別れながら、前進を続け、出会いの素晴らしい記憶とともに生きつづけるんです。

僕はむしろ文学というものを、他のものでは代替不可能な、とくべつなメディア・ツールとして、積極的に使って攻めていきたいというふうに考えるんです。だって文学っていうのは最古のメディアのひとつですからね。

誰かのことを知ろうと長い時間をかけて真剣に努力を重ねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか。

優れた音楽家は意識を音に置きかえることができるし、画家は色や形に置きかえる。そして小説家はストーリーに置きかえます。 0村上春樹の名言

我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

僕は性別からいえば間違いなく女だけど、乳房もほとんど大きくならないし、生理だって一度もない。でもおちんちんもないし、睾丸もないし、髭も生えない。さっぱりしているといえば、とてもさっぱりしている。それがどういう感じのものか、たぶん君には理解できないだろうけど。

人間は誰でも何かひとつくらいは一流になれる素質があるの。それをうまく引き出すことができないだけの話。引き出し方のわからない人間が寄ってたかってそれをつぶしてしまうから、多くの人々は一流になれないのよ。そしてそのまま擦り減ってしまうの。

たぶんいろんな感情をもっともっと外に出した方がいいんだと思うね、君も僕も。だからもし誰かにそういう感情をぶっつけたいんなら、僕にぶっつければいい。そうすればもっとお互いを理解できる。

経験そのものがひとつの意味です。その経験の連鎖を通して主人公は変化します。それがいちばん重要なことです。彼が見つけたものにではなく、彼が見つけなったものにでもなく、彼がくぐり抜けてきた変化にこそ意味があるのです。

誰にも進化を選り好みすることはできん。それは洪水とか雪崩とか地震とかに類することです。やってくるまではわからんし、やってきてからでは抗いようがない。

親切さと心とはまたべつのものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な習慣であって、心とは違う。心というのはもっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ。

「グレート・ギャツビイ」を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな。

文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかない。

世の中には絶対ってことはないんだから。

おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。

本当に深く心が傷ついたときには、言葉なんて出てこないものだよ。

日本の文壇システムからは、ほとんど黙殺されたような状態になっていました。多くの読者は僕の小説を熱心に受け入れて、本を出せばそれを買ってくれました。でも文芸世界では僕はほとんど評価されなかったし、好かれもしなかった。攻撃を受けることも頻繁にありました。

どんな言語で説明するのも難し過ぎるというものごとが、私達の人生にはあります。

あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。

僕は現実でもある日誰かが消えてもおかしくないと思って生きている。人というのは日常的に失われていくものだととらえているんです。猫を飼っているとわかるけど、動物というのはいついなくなっちゃうかわからない。そういうことって決して特殊なことではない。

死んだ人はずっと死んだまんまだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの。

他人が自分の悪口を言っている時は、寝たふりをしているのがいちばんなんだ。

「私には何もないわ」「失くさずにすむ」。

一人で暮らす人間は知らず知らずいろんな能力を身につけるようになる。そうしないことには生き残っていけないのだ。

あなた、今どこにいるの?

一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ。

書くという仕事は毎日、10円玉を貯金箱に積み立てていくようなこと。

翻訳をしていて一番難しいのは、英語のリズムをアレンジして日本語のリズムに変えなければいけないところです。リズムがないと人は文章を読めませんから。一番ダメな翻訳は、読んでいるうちにわからなくなってしまって、何回も前に戻って読み直さなければならないものでしょう。そういう意味でもやっぱり文章の命はリズムですから、話をとんとんと進めていった方がいいんじゃないのかな。

よく育つものはゆっくり育つ。

誰も助けてはくれない。少なくともこれまでは誰も助けてはくれなかった。だから自分の力でやっていくしかなかった。そのためには強くなることが必要です。はぐれたカラスと同じです。だから僕は自分にカフカという名前をつけた。カフカというのはチェコ語でカラスのことです。

忘れたいものは絶対に忘れられないんです。

人生は考え抜くものじゃなく生きるものなのよ。

物語は世界の共通言語。

夢の中から責任は始まる。

その砂嵐が終わったとき、どうやってそいつをくぐり抜けて生きのびることができたのか、君にはよく理解できないはずだ。いやほんとうにそいつが去ってしまったのかどうかも確かじゃないはずだ。でもひとつだけはっきりしていることがある。その嵐から出てきた君は、そこに足を踏みいれたときの君じゃないっていうことだ。そう、それが砂嵐というものの意味なんだ。

春の熊くらい好きだよ。

金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。

気分が良くて何が悪い?

人々はじっさいには不自由が好きなんだ。

運命は神様のレシピで決まる。

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